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【広島芸術学会】会報第153号 2019年7月13日発行
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□目次□
1.広島芸術学会第33回総会・大会のご案内
2.大会研究発表要旨
3.シンポジウム:「近世都市・広島とその芸術文化」
4.第127回例会報告
5.事務局から
・新入会者のお知らせ
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1.広島芸術学会第33回総会・大会のご案内
下記のとおり第33回総会・大会を開催いたします。
⦿日時:2019年8月3日(土)
⦿会場:広島市立大学サテライトキャンパス、セミナールーム1(総会・大会とも)
(広島市中区大手町4-1-1大手町平和ビル 9F)
≪総会≫ 9:45~10:30
≪大会≫ 10:45~17:30
◆ 開会
◆ 研究発表
① 10:45~11:30
「具体美術協会と児童との接点について」
金山和彦(倉敷市立短期大学)
② 11:35~12:20
「「幽玄」の詩学―日本古典資料における「幽玄」の解明―」
鄭 子路(広島大学特別研究員)
<昼休憩:12:20~13:30>
③ 13:30~14:15
「ロジェ・カイヨワの〈幻想的なるもの〉に関する一考察―その芸術論を中心に―」
山本和毅(一般財団法人下瀬美術館 設立準備室)
<休憩:14:15~14:30>
◆ シンポジウム「近世都市・広島とその芸術文化」 14:30~17:20
・趣旨説明:14:30~14:40
菅村 亨(広島大学)座長
・登壇者による報告:14:40~16:20
玉置和弘(広島城)
隅川明宏(広島県立美術館)
樹下文隆(神戸女子大学)
花本哲志(頼山陽史跡資料館)
・休憩:16:20~16:40
・質疑と討議:16:40~17:20
司会・進行=菅村 亨(広島大学)
◆ 閉会 17:30
※大会終了後に、懇親会を予定しています。
2.大会研究発表要旨
①「具体美術協会と児童との接点について」 金山和彦(倉敷市立短期大学)
関西前衛美術の一つである具体美術協会(具体)は、1954年に設立され、吉原治良(1905-1972)による指導の下、「他人の真似をするな、人と違うことをやれ」という指導により、若手作家は叱咤激励された。そして具体作家の証言からは、吉原が掲げる他者の模倣を許さない厳しい命題に対し、数人の作家仲間は新しい表現の根源を伝統的な美術史上に求めることを避け、その先を児童の美術に見出したとされている。
本発表では、具体作家が児童の美術から受けた影響や、具体が児童に求めたものを明らかにしていくことを目的とする。
戦後の関西前衛芸術を駆け抜けた最後の証人であった堀尾貞治(2018年12月没)は恩師である村上三郎が愛でた子どもの造形観を引き継ぎ、自身の作品制作をおこなってきた。具体美術宣言である「人間精神と物質」を純粋なまでに児童やその作品に追い求めた姿勢を具体作家が存命のうちに明確にするということは、当時の具体評価の定説である「内容が不明」、「ブルジョワの遊び」を再検証することにも通底する。そして、幼児教育界においては、吉原らの具体作家が審査委員を務めた童美展(前身は1948年から開催)が、10年間の休止期間を経て再び2017年から新・童美展として兵庫県立美術館で開催されている。このことからも、昨今、具体美術協会の再評価が高まっていることが理解できる。
本発表では、具体が児童の造形表現を追い求めた事実を特定することで、戦後関西の前衛芸術を代表した具体美術協会を構成する新たな側面を検証することを目的とする。
②「「幽玄」の詩学―日本古典資料における「幽玄」の解明―」 鄭 子路(広島大学特別研究員)
前回(第110回例会)の発表では、中国古典資料における用例に依拠しつつ、幽玄の原義および早期的意味を解明した。また、中国における幽玄の変遷史を整理することによって、以下のことを明らかにした。すなわち、中国では幽玄が価値的意味での用語として人物批評に用いられ、文章批評にも導入されたが、芸術上の一様式としては定着せず、もとより美的理想にもならなかったのである。今日、われわれが馴染んだ美意識としての幽玄美は、間違いなく日本へ伝来した後、和歌の風体としての幽玄体を経て、徐々に成立したものである。
本発表では、日本古典資料における幽玄の用例、とりわけ藤原俊成・定家一系の歌合判詞や和歌理論を中心として、歌学の歴史的な発展に従って幽玄へ新たに接近しようとする。その際、運用するのは、文献学による忠実な帰納的解釈というより、むしろ美学による演繹的批評である。具体的には、まず「詩の六義」の一つでもある<興>というメカニズムに注目し、幽玄を花鳥風月に寄せる<興>から発した詩情として説明する。次に、和歌を次の段階まで発展させるために俊成・定家が創ったレトリック、すなわちどのように幽玄体の使用によって余情の世界を創造し、和歌の本情以外にもう一層の物語性を加えるのか、ということを解明する。そして、現代的な芸術概念や心理学的美学の分析法を用いて、幽玄美そのものの構造や特質を分析してみる。この手続きを通じて、最終的に狙うのは、和歌論の自律的なコンテキストから幽玄に関する美学的思索を抽出し、一種の日本詩学として創出することである。
③「ロジェ・カイヨワの〈幻想的なるもの〉に関する一考察―その芸術論を中心に―」 山本和毅(一般財団法人下瀬美術館 設立準備室)
本発表では、20世紀フランスの思想家、ロジェ・カイヨワ(1913-1978)の著作Au cœur du fantastique (Gallimard, 1965/邦訳『幻想のさなかに―幻想絵画試論』、三好郁郎訳、法政大学出版局、1975年)で展開される幻想芸術論(以下、「幻想芸術論」と記す)を、彼の想像力や美に関する思想の中に位置づけて理解することを試みたい。
カイヨワの思想には、ある問いが常に隠されている。すなわち、なぜ人間が、自然界の一員でありながら、強固な自然法則に抗って自由な営みをおこなうことができるのか、という問いである。それ故、彼は、人間だけが有する想像力の働きに注目していくのである。カイヨワの翻訳を複数手がける塚崎幹夫によれば、〈幻想的なるもの(le fantastique)〉は、この想像力の産物の一つとして位置づけられるという。しかし、こうした文脈の中で、その具体的な諸相――どのような芸術や文学あるいは自然が〈幻想的なるもの〉なのか――を検討する試みはこれまでなかったように思われる。
〈幻想的なるもの〉についての思索は、1960年代半ばから、芸術、文学、自然の三つの分野において展開されているが、本発表で取り上げる「幻想芸術論」は、その最初の本格的な論考にあたり、主に、「芸術」(ここでは、書物の挿絵なども含む広義の絵画)において、具体例を挙げながらその存在を探究している。この著作に関する言及は、幻想芸術や幻想文学の研究にいくつか見られるが、背景にあるカイヨワの思想を踏まえたものではなかった。そこで、「幻想芸術論」の実相をカイヨワの思想に照らし合わせ、彼の述べる〈幻想的なるもの〉が如何なるものかを再考したい。
3.シンポジウム:「近世都市・広島とその芸術文化」
<趣旨>
本年は浅野長晟が広島藩主として入城してから400年にあたる。浅野氏入城を機に、広島城下は藩都としての発展を始め、藩政だけでなく、広島藩の芸術文化を花開かせた舞台として栄えた。
美術において、浅野家が中国美術に強い関心を寄せ、数々の優れた将来作品を蒐集して、武家の絵画としての水墨画の古典研究がすすめられた。一方、城下においては都市の経済的発展のなかで力をつけた富裕商町人たちが、全国に拡がった、いわゆる町人文化の美術を盛んに受容し、移植していた。
武家の式楽として位置づけられた能楽は広島藩においても保護され、盛んに行われた。代々の藩主は喜多流を嗜み、武家の社交界で力を発揮した。また、富裕商人や庄屋たちに能を学ぶ者が現れるなど、町人層にも能は拡がり、神社の祭礼などでの勧進能を人々が楽しむようになっていった。
広島藩の文化を支えた存在として、藩の重臣や学者たちを見逃すことができない。彼ら文人たちはサロン的ネットワークを構築し、書や漢詩文を中心とした豊かな活動を行っていた。頼家の学者たちを柱とした、そうした文人たちの交遊が広島の文化を牽引していた。
このたびのシンポジウムでは、広島藩の芸術文化を花開かせた都市としての広島と、美術、能楽、文人たちの活動に着目し、広島藩政下で花開いた芸術文化の一端を紐解きたい。
<登壇者による報告要旨>
玉置 和弘(公益財団法人 広島市文化財団 広島城 主任学芸員)
「近世都市広島の成立とその歴史」
百万都市広島は、広島湾頭の三角州に築城を開始した毛利氏に端を発するが、その都市としての基盤は浅野期に完成した。広島は、城をとりまく城下町があり、城下町を通る大動脈である西国街道の周囲に町人町が広がり、都市の中心を構成している。また、江戸時代を通して、干拓によって都市が南側へと広がることで成長していった。このことにより、広島は政治経済的に発展する都市となり、富裕な町人層などの台頭により、さらに文化的に隆盛を誇る都市となった。近世都市広島は、現在中国地方を代表する「広島市」のルーツとなった。
隅川 明宏(広島県立美術館学芸員)
「浅野家蒐集の《唐絵》概観」
浅野家において、他の大名家と一線を画する道具であったのは、中国・宋元時代の伝承を持つ絵画である。コレクションには、北宋の徽宗皇帝や南宋の宮廷画家などの作品が中核を占め、元代の文人画や、草虫、藻魚、栗鼠などの地方色豊かな作品群、禅林水墨画などがあまねく加えられた。これらは「唐絵」尊重の価値観を継承して蒐集されたもので、それを古典とした室町水墨画にも雪舟、狩野正信、元信などの作品が並んだ。浅野家で最重視された絵画コレクションを概観しつつ、これらの蒐集に際して江戸時代の狩野派絵師がどのように関わったのかを紹介する。
樹下 文隆(神戸女子大学文学部教授)
「浅野家及び広島城下の能楽事情」
江戸期の大名家が、すべてにおいて幕府・将軍家の意向を常に意識していたことは言うまでもない。北七大夫を贔屓した二代秀忠、宝生大夫を贔屓した五代綱吉の時に、外様大名家では流儀変更の動きがあり、享保の改革後には諸藩でお抱え役者が激減したように、諸資料中に散見される能楽記録からも将軍家の意向に沿うべく各大名家が腐心していた状況を推量しうる。秀吉や家康、将軍家との関係に留意して、浅野家代々の能楽を考えてみたい。ついで、喜多流一辺倒と思われがちな広島城下の能楽事情について、上方の観世流役者と関係を持つ町衆の存在などを諸資料に基づいて点描してみる。
花本 哲志(頼山陽史跡資料館 主任学芸員)
「広島藩儒頼春水の交遊~文雅の交わり~」
竹原の町人の子として生まれた頼春水(1746~1816)は幼い頃から学問の道を志し、努力を重ねて広島藩に儒者として登用された人物である。藩主や世子の侍講を務め、昌平坂学問所で講義を行うなど学者として高く評価された一方、能書家としても名を馳せた人物であった。江戸在勤が長かった春水であるが、広島においては文雅を愛する同好の士と広く交流し、多くの作品を残している。ここでは、頼春水の交遊から見た“文雅の交わり”を紹介したい。
4.第127回例会報告
◆ 尾道のアートベース百島と光明寺會舘の見学 報告:渡辺敬子(中国新聞社)
6月15日の第127回例会は、廃校や空き家を活用しながら地域に根差した活動を続ける尾道市の「アートベース百島」(百島)と「光明寺會舘」(東土堂町)を見学した。石松紀子さん(広島市立大学准教授)、今井みはるさん(アートギャラリーミヤウチ学芸員)が案内役を務め、計7人で訪れた。
フェリー「百風」に乗船し、尾道港から島へ。現代美術家柳幸典さんがディレクターを務める「アートベース百島」は現在、若手スタッフ4人が島に暮らしながら運営に当たっている。今回の訪問では、同スタッフの木村奈央さんによる解説で、旧中学校舎や旧映画館の常設展示を見学した。
旧校舎には、柳さん、原口典之さん、榎忠さんの代表作とともに、広島市立大で学んだ岩崎貴宏さん、吉田夏奈さんが手掛けた作品があり、予約制で鑑賞することができる。併設したカフェでは、島で焼いたベーグルや近くでとれたビワが添えられた昼食をいただいた。訪れた人が宿泊できる場を島内につくる準備も進んでいるそうだ。
続いて光明寺會舘へ。小野環さんと共に尾道でアーティスト・イン・レジデンス活動を支えてきた三上清仁さんから、同會舘の活動や、マレーシアの現代美術家シュシ・スライマンさんが2013年から継続している築100年の空き家の解体・再生プロジェクトについて話を聞いた。
シュシさんは、柱や一部の壁などを残し、空き家から取り出した全てのもの(木片や瓦、釘、砂まで)を捨てずに分類、記録、保存。これまでの時間が凝縮されたような美しいアーカイブを會舘2階に展示している。残った駆体にはマレーシア様式の木製バルコニーを設け、そばに新しい苗木を植えた。「完成」のイメージやスケジュールが決まっているわけではなく、住民の力を借りてゆったりと作業を続けているという。新しい時間を重ねながら、自然や文化がどのように融合していくのか楽しみだ。
広島県などが来年秋に県東部で計画する芸術祭「ひろしまトリエンナーレ」の会場の一つとなる尾道。こうした小さな拠点が連携し、新しいうねりをつくっていくのだろう。今回の訪問で、しなやかでたくましい現代アートの生命力と、それを支える人々の確かな愛情に触れることができた。
5.事務局から
◆ 新入会者のお知らせ(敬称略)
洪更新(こう・こうしん/日本の枯山水庭園と中国の江南園林について美意識の比較)
閻聖昭(えん・せんしょう/美学、青少年心理)