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● 巻頭言 文学研究は政治的正義を主張する場なのか 西原大輔(広島大学大学院教授) 文学研究が、ますます政治化しているように思われます。作品論にかこつけて「弱者」の正義を主張するのが、学問の王道だと言わんばかりの風潮です。 ある学会の会議で、一人の教授がこんな意見を述べました。障害者の「害」の字は「がい」か「碍」を使うべきだ、と。僕は、非常に違和感を覚えました。もしその時僕が、「害」を使用するのが良いと言ったら、「お前は障害者差別主義者だ」と糾弾されたかも知れません。しかし、何を隠そう、「障害者」と書くべきと考えている僕自身が、身体障害者です。黙っていたから良かったようなものの、あやうく健常者から、「障害者を差別している」と非難されるところでした。 いったい、誰が誰を代表しているのでしょうか。健常者は障害者を代弁することができるのでしょうか。また、その大学教員の底の浅い倫理観は、どこから来たのでしょうか。漢字を書き換えるのは、むしろ危険な言葉狩りではないでしょうか。僕はこの時ほど、「正義」のインチキさを痛切に感じたことはありません。学界や論文で倫理や正義を声高に叫ぶと、研究者の正統性が高まるカラクリがあるのでしょう。「障害者」が差別語であるかの如くに語ったその方は、まもなく亡くなりました。ご冥福をお祈りします。 「正義」が発揮されるのは、障害者に関することだけではありません。植民地、女性、少数派(マイノリティー)、そして最近大流行のLGBT。当事者でない人たちが、あたかも自分こそ正義と言わんばかりの論調を、論文の中で繰り広げている事例が見受けられます。 僕のような学者は、生存競争のため、論文生産の圧力にさらされています。また、学会の議論で主導権を握りたいという欲もあるでしょう。そのような場合、誰も反論できないような「正義」を論文にちりばめたり、匂わせたりすると、効果的かも知れません。多くの人は、「正義」の前に沈黙します。人を黙らせ、自己の権威を高める方略として、「倫理」は力を発揮するのでしょう。ある学者は学会の挨拶で、こんな話をしていました。「自分は人権や平和を守るために、頑張って学問をしてきた」と。この先生にとっては、文学より政治が大切なのかも知れません。学会活動も、一種の政治運動のうちなのでしょう。 僕はしばしば思います。文学を学ぼうと志した原点に戻りたい、と。文学研究者なら誰でも、十代の頃、本を読んで心の底から感動した体験があるはずです。僕がビジネスマンにも官僚にも医者にもならず、因果にも文学学者になったのは、お金を稼いだり権力を握ったりする喜びよりも、文芸作品を読む純粋な歓喜がはるかにまさっていたからです。 自分自身、二十代の一時期、議論で優位に立ちたい一心で、文学理論書を読み耽った体験があります。また、最初の著書『谷崎潤一郎とオリエンタリズム』では、他者表象について倫理的な言辞を連ねた前歴もあります。はやり始めたポストコロニアリズムの流行に乗って評価されたい。大学院生時代には、そういう打算的な気持ちも、胸の片隅に潜んでいました。しかし今は、文学作品の素晴らしさを、飾らず率直に語りたい。詩や小説の魅力が伝わる本や論文を書いてゆきたい。心からそう思うようになりました。
● 第124回例会報告 展覧会「没後四百年 雲谷等顔展」およびコレクション展「修理完成記念 雪舟《山水図巻》の謎」の鑑賞とトークイベント「日本美術応援団 等顔を応援する!」の聴講 末永航(美術評論家) 本年秋の例会は、日(日・祝)、山口市で開催された。 まず正午に山口県立美術館に集合し、この美術館の特別展「没後400年 雲谷等顔 雪舟を継いだ男」を城市真理子会員(広島市立大学 日本美術史)に解説していただきながら見学した。等顔は山口に縁の深い画家だが、この展覧会には広島県三原の佛通寺からも障壁画が出品されていた。 城市さんは水墨画研究の専門家で、雪舟の国宝《四季山水図》を所蔵し、山口市から近い毛利博物館に勤務されていたこともある。わかりやすく、的確な説明を受けて、門外漢も楽しく鑑賞することができた。 その後すぐそばの山口県教育会館に移動し、ちょうどこの日に開催された、展覧会の関連イベント、山下裕二氏(明治学院大学 日本美術史)・山本英男氏(京都国立博物館 日本美術史)の対談「日本美術応援団 等顔を応援する!」を聴いた。 「日本美術応援団」というのは、山下さんと故人となった赤瀬川原平氏が名乗っていたものだが、今回は赤瀬川さんの代わりに等願の専門家山本さんが加わっていわば臨時の特別編成である。山本さんは以前この山口県立美術館に勤務されていて、34年前に開かれたこの前の山口県美等顔展の担当学芸員だった。 つぎつぎと作品の写真を見ながら、ふたりが研究の思い出などを織り交ぜて最新の知見を披露し、時にはフロアにいる今回の担当者、藤井善子学芸員にも発言を求めるなど、型にはまらない構成で、本では得られない、「トーク」ならではの理解を聴く者に与えてくれた。
資料にもとづき、事業計画および予算案について大島事務局長から説明がなされた。審議の結果、平成30年度事業計画並びに予算案は承認された。 終了後はまた美術館にもどり、コレクション展「修理完成記念 雪舟《山水図巻》の謎」や常設展を各自で見学し、帰路についた。広島近辺からは、近くて遠い、意外に行くことの少ない山口で、充実した展観を観ることできた貴重な機会だったが、参加者が極めて少数だったのが惜しまれる。
◆ 今後の例会について ・第125回例会
日時:2018年12月15日(土)15:00~17:00
第126回例会
日時:2019年3月9日(土)午後(※詳細時間は後日お伝えいたします)
─事務局から─
◆ e-mailアドレスの登録(再掲) 会報電子版を受け取るためのe-mailアドレスが未登録の方は、登録希望のe-mailアドレスを事務局(hirogei@hiroshima-u.ac.jp)までお知らせください。会報は、次号(2019年2月頃発行)から電子版となる予定です。 (事務局長・大島徹也)
◆ 新入会者のお知らせ(敬称略)
第125回例会終了後の懇親会(要事前申し込み)について 例会終了後、以下の要領で忘年会を兼ねた懇親会を開催いたします。ご参加をお待ちしております。
★ 参加を希望される方は、必ず12月7日(金)までに、「広島芸術学会例会懇親会参加希望」という件名で、電子メールにて参加をお申し込みください。 忘年会シーズンの時期柄、8日以降の申し込みは受け付けかねます。ご理解のほどよろしくお願いいたします。
★ 参加申し込みメール送信先(例会担当委員:柿木伸之):kakigi@hiroshima-cu.ac.jp
― 次回第125回例会のご案内 ― 下記のとおり第125回例会を開催いたします。どうぞ多数お集まりください。 ※ 例会終了後、忘年会を兼ねた懇親会を開催いたします( 要事前申込み) 日時:2018年12月15日(土) 15:00~17:00 会場:広島市立大学サテライトキャンパス (広島市中区大手町4-1-1、大手町平和ビル9階)※ 広島市役所の向かい側です。
<研究発表要旨> ① 明治期の美育としての女礼式について 劉敏(広島大学大学院 総合科学研究科 博士課程後期) 明治に時代が移り、所謂近代化が始まると、西洋思潮が日本に流入し、外来文化と伝統文化の葛藤が生じるようになった。美育分野でもいうまでもない。女性の美育に関して、一挙手一投足の作法の稽古により、身だしなみを美しく整えるだけでなく、精神の面も練磨されるという女礼式が浮上してきた。女礼式とは、江戸時代に小笠原流を学んだ礼法家水島卜也が、明治初期、武家の女性の礼儀作法として、確立させたものである。明治10年代には、小笠原清務らの尽力で女礼式は正式に学校教育に組み込まれた。武家に始まった女性を対象とする美育には、西洋流の美育意識の影響が見られるが、同時に東洋の伝統文化の影響も見られる。 日本は、古くから中国の文化的影響を受けてきたが、江戸期には、伝統的な武士階層の教育を、儒教の教えに従い、「礼楽」教育としても解釈し、人間形成の教育を行っていた。この儒教的な教育意識は女礼式に影響したが、そこには伝統的な教育精神も受け継がれている。東洋では、古くから宗教的な実践や藝術的修行を初め、身心の訓練を通して精神を向上させる修行が重視されている。例えば、武芸では、稽古により「身心一如」を目指すというように技と心を磨くことを求める。世阿弥に代表される能楽の世界では、わざの稽古に基づいて身心的振る舞いの美しさの理想を求めた。「女礼式」には、このような東洋的ないし伝統的な身心観、藝道観も影響している。 以上、本発表では、明治期に美育として提唱された女礼式を、東西の文化的また思想的な交流の中で生じた文化変容として考察するが、その考察の焦点は、女礼式に於ける身心的実践と人格向上の関連付けを巡る思想的な解明である。
② 日本絵画における画材料の変遷 ―画法書に記載された彩色料にもとづいて― 古賀くらら(広島市立大学 芸術学部 助教) 日本絵画は、古くから天然素材を主とした限られた画材料によって多様な表現を可能にしてきた。しかし、近代以降、画材料の多様化が目覚ましく、合成の絵具をはじめ製品が豊富になり、現在では、伝統的な画材料や技法、並びに、それらを支える産業の衰退が著しい。社会状況・産業の急激な変化により、今や画材の原料が入手困難となり、その加工技術もまた限られた場でかろうじて存続している例が多い。また、描き手のオリジナリティが重視される現代では、画材や制作に関連する全般において多種多様な選択が可能であるということも、伝統的な材料や技法の継承の多くが途絶えてしまった原因であろう。 本発表では、主に17世紀終わりから18世紀前半、日本独自の指南が見られるようになった時期の画法書から、特に彩色料を主とした材料に関する記述をとりあげ、当時と現代の画材料の異同を検討する。画法書としては、主にやまと絵の流派である土佐光起『本朝画法大伝』(元禄三年)をとりあげ、『本朝画史』、『御絵鑑』、『画筌』、『画法彩色法』等の情報も併せて、彩色料並びにその混色・重色といった調合の技法についての研究結果を報告する。 本研究で判明したのは、実は、従来の名称をとりながら原料が現在と異なるものがあるということや、長年使用されてきた材料や絵画技法のうち、今はもう失われてしまったものも多く存在するということである。
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