会報のバックナンバーは、こちらを参照ください
広島芸術学会会報 第100号
新たな芸術学会に向けて金田 晉 広島芸術学会(最初の5年間は「広島芸術学研究会」)は、昭和62(1987)年に設立された。それから20年が経った。人生で言えば、独り立ちの年齢である。 今年の第22回芸術学会総会で、私たちは学会の改革を提案し、賛同を受けた。設立時に掲げた「市民に開かれた学会へ」という精神にもう一度立ち返れ、それが主旨であった。早速、委員会を重ね、学会の行う諸種の事業を全面的に点検し、可能なところから改革に取り組み始めた。 まず例会の改革に着手した。9月の第84回例会は、広島市植物公園を会場にして、「秋の草木をたのしむ」体験を共有しながら、環境と美の問題に取り組む企画であった。制作の側から草木染のワークショップ(井上美津子会員)が、美学理論の側から、中国・山東大学の馬龍潜教授による中国において直面する環境美学の報告があった。12月例会には、美しくありたいという人間の願望を、顔のメーク、衣裳のファッション、街並みの装いという具体的場面から問い直そうというのである。美学のもっとも喫緊の問題は、書物の中にあるのでない。むしろ私たちの生きる、この「生活世界」の中にあるはずだ。議論の場は教室や講堂だけではない。むしろそのテーマが求められ、試される現場で行われるべきである。 私たちは、わが芸術学会は研究者と作家と市民(芸術愛好家)の<サンフレッチェ>で構成されていると言い、それが日本学術会議登録団体の中でのアイデンティティだと主張している。だがその三者はどれだけ向かい合ってきたか、それが問われている。ふだんはそれぞれ別の活動をするにしても、年に何回か、例会の時ぐらいには共通体験をもってよい。そこに対話、共同作業が生まれるはずだ。そこが明治以来の西洋美学の移植の過程に 落していたところであった。三者の結びつきを果たすことによって、美学は新たな段階に立つであろう。 学会草創の頃は、広島の芸術環境も右肩上がりの時代であった。音楽大学があり、美術系の短大があり、4年制大学ができようとしていた。美術系公募諸団体は活発な制作発表活動をつづけ、全国有数のコレクションを誇るひろしま美術館(1978年設立)が生まれ、公立では広島市現代美術館(1989年設立)がオープンし、広島県立美術館(1968年設立)もリニューアルした。広島大学でも芸術系の教員養成と並んで、大学院で美学や芸術学の研究者、専門家を世に送りつつあった。財界も1990年代はじめ、芸術、文化の育成、支援事業としてのメセナ活動に力を入れていた。 今、世界は経済不況の只中。だがそれは芸術文化が人間の生きる力になれるか、試される時代でもある。「人はパンのみに生きるにあらず」。困苦の時代に、わが芸術学会は、芸術文化を結び目にして生きる喜びを分かち合う場であってほしい。市民と研究者と作家(演奏家)が手を取り合って、創 の舞台を演じあげることを願っている。(広島芸術学会会長・かなた すすむ)広島芸術学会第84回例会報告 広島芸術学会の改革第1回の例会は、時期に合わせて「秋の草木をたのしむ」を統一テーマに、広島市植物公園で開催された。朝方の猛烈な雨で、JR山陽線が不通になるなど開催が心配されたが、お昼頃から陽も射し始め、埃を洗われたすがすがしい森林浴をたのしみながらの一日であった。出席者31名。開催に当たっては、植物公園のサポートを受け、会場を用意していただき、研究発表後には園内を丁寧に案内していただいた。石田源治郎園長をはじめ職員の方々に感謝しています。発表①「自然を染める草木染」染色作家 井上三津子会員ワークショップ「柿渋で和紙を染めよう」指導:井上会員+染色グループ「創り手人」 ワークショップの参加者には作品を仕上げて持って帰ってもらうために、ワークショップを下地作りと作品制作の二つの工程に分け、講義と組み合わせて行われた。まず重厚な手漉き和紙に濃い茶色の柿渋液を二度塗りして下地を作った。それが乾くまでの時間を念頭に置いて、草木染めの歴史や技法について解説された。講義後、参加者が再び制作にとりかかり、乾燥した紙に思い思いの模様や色を染めていった。柿渋の濃度と媒染剤使用の回数などによって色は変わっていく。工夫の仕方、手間暇のかけ方によってどんどん姿を変えていく。まさに生き物を見ているようであった。 草木染とは、野原や道端の草木の花、葉、落ち葉、実、小枝、樹皮などの色 を使って紙や布などを染める技法。その中から洗濯しても褪色しない方法が定着した。中でも柿渋は日本特有の湿気に対して防水と防腐)効果があり、その渋紙を畳の下に敷くなどして古くから日常的に使われてきた。美的な目的に使われるようなるのは、むしろ新しい。「天然染料は天然の素材にしか染まらない」「天然染料や媒染剤などもそのまま流すと環境によくない」という指摘も印象に残った。発表②「『新時期』における中国の生態論美学の形成と発展」山東大学文藝美学研究センター 馬龍潜教授 中国美学は20世紀の始めに西洋から中国へ輸入されて以来、芸術の理論的思弁が重視され、社会現象や芸術実践との関係が軽視されてきた。中国では国を挙げて「新時期」」というかけ声で1978年以降近代化建設に取り組み、多くの成果を挙げてきたが、一方で様々な環境問題や自然災害が起きている。1980年代以来、現実に直面する諸問題を検討し、その地点から新しい美学「環境(生態論)美学」を提唱する理論的試みが始まっている。馬教授は三峡ダムについての自身の考察も紹介しながら、説得力をもって話された。中国は国土が広大で膨大な人口をかかえ、地域的に教育の偏差と発展や習慣の相違も大きい。政府の行政力のみに頼ることはほぼ不可能に近い。そのため学校や大学の教育で環境意識と社会的な実践力を育成することが要求されている。人と自然が共存・共生し、相互に通じ合う融合が要求されている。人間は自然という大きな生命システムの中にいて、その保護が最終的に一番利益を得ることを知らせることが環境教育の目的でもある。(報告者:広島大学大学院博士課程 李恩和)年報「藝術研究」を身近なものに!金田 晉 第22回総会で報告しましたように、年報「藝術研究」第21号の刊行を延期して来年度第22号との合併号を刊行することにいたしました。今年度刊行に向けて投稿された執筆者各位、刊行の準備をされていた編集委員会、それから年報到着を心待ちにされていた会員各位にお詫びいたします。この延期を無為の時とせず、年報を会員の目線から発信される理論的表現の場に作り変えてゆくための時間にしたいと考えています。 わが芸術学会は創立以来、二つの性格をもってきました。一つは広島という地域に根ざすということであり、それはこの地域の研究者、作家、市民が集い、相互交流の中から新しい芸術文化の新しい可能性を模索する集合体であることによって示されています。もう一つの性格は、美学や芸術研究に関して全国に発信する第一線の研究団体であろうとし、その願いは全国の同学の研究者に共鳴を受け、かれらはわが学会に参加し、支援してくれました。その機関誌である「藝術研究」誌には、国際的に活躍する研究者(外国人を含む)が寄稿され、全国の若手研究者が競って論文を応募してきました。現在、「藝術研究」は美学や芸術学の分野での全国水準の学術誌と承認され、そこに掲載される論文(査読を受ける)も高い評価を受けています。 だが「藝術研究」誌はたんなる学術雑誌ではありません。隔年に、学会員の作家たちが開催する展覧会「芸術展示」への出品作品が掲載されてきました。芸術学会の記念大会等で企画された特別講演、シンポジウム報告も掲載されるようになりました。また学会員の多くが参加した、たとえば昨年の岡本太郎の「明日の神話」誘致運動についての総括報告も執筆されました(21・22号合併号に掲載予定)。その年その年のアクチュアルな問題も「藝術研究」には取り上げてきました。この方向はもっと充実してゆくべきでしょう。 だが、既刊「藝術研究」を概観するとき、掲載論文が大学アカデミズムの研究論文に偏向していることは否めません。もっと会員の手許にあって、読まれる雑誌にしてゆくべきでしょう。1)作品制作や演奏研究の過程で行われる研究や調査など。2)広島の地に関わる芸術文化の歴史の発掘。芸術文化をひろく考えると、「文房四宝」の一としての、呉で生まれた万年筆(セーラー万年筆)や香りと味覚の芸術とも言える安芸津生まれのニッカウィスキーの研究などがあってもよい。3)未曾有の不況下にあって、美術館や文化施設の経営や運営に関する論考。4)アカデミズムの外で長年研鑽してきた会員の研究、調査、資料発掘、紹介等。5)その他。これらの研究、論考は、査読を経なくても(文章上のチェックはしますが、)掲載してゆきたい。査読を希望するかしないかは、投稿者に決めてもらいます。 年報「藝術研究」を、会員にもっと近しい存在にしてゆくために、会員の強いバックアップを期待しています。奮ってご投稿ください。「藝術研究」がどこまでも会員の近くにあってほしい、それが委員会でこの間議論してきた共通の願いです。東アジアの現代音楽祭2009inヒロシマ ~作曲家の現在~<広島からのメッセージ>(案)伴谷晃二 広島芸術学会運営委員会(10月19日)において、2009年度の事業案として「東アジアの現代音楽祭2009 inヒロシマ ~作曲家の現在~ <ヒロシマからのメッセージ>」を提案し了承を得ましたので、企画・内容についてご説明いたします。 上記の企画・内容は日本現代音楽協会(ISCM)創立80周年記念行事(2009~2010年)のプレイベントとしてもリンクしています。 韓国、中国、台湾、フィリピン、香港他の国々の現代作曲家との交流をとおし、世界における文化・芸術の東アジアの潮流に触れることにより、日本のとりわけ広島を中心とした中国・四国地方の現代芸術の発展に貢献・寄与することを目的とします。2009年10月3日(土)4日(日)、アステールプラザ・オーケストラ練習場において「東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ ~作曲家の現在~ <ヒロシマからのメッセージ>」(現代音楽プロジェクト+広島芸術学会の共同主催)においてコンサートと基調講演およびシンポジウムを開催し、全国的および世界的な展開を図ります。 つきましては、会員のみなさまのご協力およびご参加をお願いいたします。企画・内容については下記のとおりです。記公演名「東アジアの現代音楽祭2009 in ヒロシマ ~作曲家の現在~<ヒロシマからのメッセージ>」(仮称)日 時2009年10月3日(土)4日(日) *10月2日(金):リハーサル会 場アステールプラザ・オーケストラ練習場主 催現代音楽プロジェクト+広島芸術学会(共同主催)共 催ひろしまオペラ・音楽推進委員会、(財)広島市文化財団協 力日本現代音楽協会、中国・四国の作曲家、エリザベト音楽大学、国際現代音楽協会(ISCM本部:オランダ)、アジア作曲家連盟(ACL本部:香港)他(予定)後 援(社)日本作曲家協議会、文化庁、文部科学省、サントリー音楽財団他(予定)協 賛(株)ヤマハミュージック瀬戸内、ブレーン(株)、(株)河合楽器製作所他(予定)<プログラム>(予定)1. コンサート:2009年10月3日(土)第1部:14:00~16:00第2部:17:00~19:00Gene W.Lee、Boknam Lee、朴 銀荷、金 重希(韓国)、Wen-Tze Grace Lu、Tzyy-Sheng Lee(台湾)、Wing-Wah Chan(香港)、陳 明志(香港)、C.Toledo(フィリピン)、JIA Da-Qun、Henglu Yao、郭 元(中国)、湯浅譲二、糀場富美子、伴谷晃二(日本)他の室内楽作品(1~3人の演奏者:2003~2008)を発表する作曲作品展。2. 基調講演+国際シンポジウム:2009年10月4日(日)基調講演 :14:00~14:30シンポジウム:14:45~16:30「東アジアの作曲家の現在<ヒロシマからのメッセージ>」(仮称)基調講演:湯浅譲二(予定)国際シンポジウム:伴谷晃二(日本;コーディネーター)、湯浅譲二(日本)、Gene W.Lee(韓国)、Wen-Tze Grace Lu(台湾)、Wing-Wah Chan(香港)、C.Toledo(フィリピン)、Henglu Yao(中国)の6名のシンポジュストを予定。<現代音楽プロジェクトチーム>(企画・構成・運営他)音楽監督:伴谷晃二 プロデューサー:馬場有里子ディレクター:能登原由美 事務局:大橋啓一、大山智徳、米門公子他新コラム 展覧会評G・S・A展 会場::ギャラリーG(広島市中区上八丁堀4--1)会期::平成20年9月30日(火)~10月12日(日)松田 弘 広島市の中心部、広島県立美術館のはす向かいにギャラリーGというギャラリーがある。 G・S・A展、は、G・セレクション・アワード展のことであり、ギャラリーが選出した若い作家たちに作品を展示してもらい、その中から賞(アワード)を授与し、これからの制作活動を支援しようとするものである。第一回の今回は、梅田美里(版画)、黒田大祐(彫刻)黒田ふみ(油彩画)、新庄加奈(日本画)、長岡朋恵(インスタレーション)、山浦めぐみ(日本画)、山田哲平(彫刻)ら7人の作家たちが出品した。 この展示を見て、感じたことを述べてみたい。個々の作家たちには当然のことであるが個性があり、独自の 形思考を持っている。そのことを認めた上で、彼らにはある共通点を指摘したい。それは、程度の差、あるいは自覚的かどうかの違いはあれ、「存在」の問題に関わった制作をしている、ということである。 例えば、新庄加奈の絵画作品は、若い女性が背中合わせに立って横を向いている。顔つきから判断して同一人物の二重像のようにも見える。しかし腕は一本しか描かれていない。自己同一性の希薄さ、あるいは個としての人間存在の不安やもどかしさを感じさせる。実存の喪失ともいえなくもない。 また、山田哲平の彫刻は、特定できない動物の頭だけのものと、白いやぎを思わせる比較的小さな動物像の作品である。彼の作品は動物の形をしているが、そこに「人格」のようなものを感じさせるところがある。動物の体に人間の存在を仮託しているともいえる。あるいは、その動物と観る側の私たちの間で、存在を巡る会話が始まりそうな気配を感じさせる。作家本人とも話したが、私は彼の作品に、小説家の村上春樹の作品とに共通するものを感じる。現代社会における人間存在のリアリティーの喪失である。 今回、ギャラリー側の選考委員会によって一席のグランプリを獲得したのは黒田大祐である。ギャラリーの外の屋外に展示されていたが、木の板をガタガタに組み合わせ、一台の自動車を作っている。その表面には手彫りによって細い溝が無数に彫られ、銀色に輝くアルミ箔が貼られている。作家によると、これはイワシの魚群の形象化である。捕まえどころなく形を変えて遊泳する魚の群れ。その形があってないような存在に、作者は興味を持っている。作家は独自の感性で、生命の存在が不定形であることに気がつき、確信された確固とした不動の存在としての生命とは別の存在の仕方を見つめているのだ。 ここで言及しなかった作品には、存在の問題には一見して無関係のようにも見える作品もあったが、彼らは大学を卒業したばかりの者から30歳そこそこの若者たちであり、人生の長い旅路が始まったばかりの者たちである。個人的な人生にしても、作家としてのキャリアにしても、これから自らの存在の意味と、芸術家としての普遍的な存在の意味とを意識せずに過ごすことは不可能だろう。その意味では、今回の展示に「存在」の問題を共通点として見ることは当然といえば当然のことだ。だが、私は、現代の若者たちが「存在」の問題に直面せざるを得ない状況のどうしようもない困難さを無視できない。そして、その困難さは、真の芸術家が背負わなければならないものであり、彼らにはそれができるような予感がする。彼らは可能性に満ちている。今後の制作に期待したい。投稿・エッセイ中国の新しい風広島大学 袁 葉 地下鉄駅への降り口で車椅子の方を目にした私は、思わず足を止めた。バリアフリーが進んでいない北京の街では、実に珍しい光景なのだ。下から数人が駆け上がってくる。誰かが係員を呼んできたらしい。車椅子を抱えてゆく彼らの後ろ姿から、まるで清風が吹き抜けたような感じがした。今年9月、パラリンピック開催中の北京の街角でのワンシーンである。 数歩遅れて階段を降りながら、初めて日本の土を踏んだ時のことを思い出していた。85年10月、文部省(現文科省)の奨学生として来日し、大阪空港に到着。歩道を引いていくスーツケースが何かに引っかかって止まった。下を見ると、デコボコの付いた黄色いタイルのようなもので、それは延々と連なっており、まるで長い帯が路面を締めているかのように見えた。「これは何ですか?」と出迎えてくださった文部省の方に尋ねてみた。「ああ、これは点字ブロックといって、目の不自由な方のために取り付けられているんですよ」冷戦の時代とあって、「弱肉強食」が資本主義の代名詞と教わってきた私は、意外な答えに立ち止まって向き直った。「これは空港の敷地内のものですか?」「いいえ、空港の外にも、あちこちにありますよ」目を閉じてその「帯」の上を辿ってみると、足元からふわーっと温かいものが体の中に流れ込んでくるような気がした。 ところで数年前、障害者をテーマにしたある中国 画が日本で上映された。『きれいなおかあさん』(2000年)。軽度聴覚障害児とその母親の健気な生き方が描かれた作品だ。普通の小学校に通わせたいという母親の願いが、叶えられぬまま迎えるエンディング…。中国社会に大きな波紋を投げかけた。 その映画を観て、私は留学生時代の「広島大学附属中学校見学」を思い出した。初めて知った養護学級というものの存在。担任の先生に「同情心を持って接していらっしゃるのですか」と尋ねると、「いいえ、同情心ではなく、同じ普通の人間として接しています」という答えが返ってきた。当時80年代の中国では、障害者は「残廃」と呼ばれていたのだ。 月日が経ち、3年ほど前から「養護学級」は「特別支援学級」と呼ばれるようになり、日本人の考え方も時代の流れと共に進んでいると感じさせられた。 しかし、中国も変わりつつある。90年代に入ってから、障害者は「残疾人」と呼ばれるようになり、今年9月北京に里帰りしている間に、テレビから「残疾人士」、「残障人士」(人士→方、方々の意味)という呼び方を多く耳にした。 それは、選手村以外でも、車椅子の方や目の不自由な方を案内するボランティア活動が活発に行われていると報じていた。 今回のパラリンピックの開催によって、中国人の障害者に対する思いやりの心が大きく育まれたに違いない。広島芸術学会会員各位12月の初めに、会報100号を会員の皆様にお送りしたのですが、編集のミスで、水島裕雅氏の投稿文が掲載もれとなってしまいました。対応策を委員会で話し合いました結果、次号の巻頭言に掲載させていただくことになりましたが、まずはホームページに掲載させていただきます。心からお詫び申し上げます。広島芸術学会事務局栗原貞子記念平和文庫について広島大学名誉教授 水島裕雅 本年(2008年)10月7日に、「生ましめんかな」「ヒロシマというとき」などの詩で国際的に著名な広島の詩人栗原貞子さんの全文学資料が、長女の栗原眞理子さんによって広島女学院大学に正式に寄贈された。その資料の内容と意義ならびに女学院大学に「栗原貞子記念平和文庫」として寄贈されることになった経緯などについて論じてみたい。 寄贈された資料はダンボール約160箱であるが、その内容は多岐にわたっている。それらの資料のうち、書籍1901冊、雑誌類2331冊、反核・平和・環境団体発行の機関紙・パンフレット類46種の大半は開架で収蔵されている。また、肉筆原稿204点、肉筆ノート・メモ132点、寄稿原稿26点、書簡(ダンボール8箱分、点数未確認)、写真(ダンボール半箱分、点数未確認)、新聞類307部(戦後発行に携わった「広島生活新聞」など)、スクラップ類(ダンボール30箱分)は閉架で収蔵されている。このなかには国会図書館にも揃っていない『中国文化』や『広島生活新聞』など、戦後間もなく栗原夫妻が編集・出版に携わったものが数多く含まれている。また、『栗原貞子全詩篇』(土曜実術社、2005年)に収録されていない詩も多数見つかったそうである。さらに、無数のスクラップ類やメモなどは、時事問題に関わった日本で数少ない詩人としての栗原貞子の詩を解明する良い手がかりであろう。 これらの資料についてはいずれインターネットで公開される予定と聞く。栗原貞子ならびに広島の平和運動の研究は、今後この「栗原貞子記念平和文庫」を中心になされるであろう。女学院大学の関係者ばかりでなく、一般の人々がこの資料に触れて、戦争ならびに平和と文学の問題を考えてもらえれば、この資料が未来の平和のために役立つことと思う。 今回、女学院大学が進んで栗原貞子文学資料を引き受けてくれたが、当初この資料は広島市立中央図書館に寄贈される予定であったし、事実この資料の一部は一度中央図書館に寄贈されたものである。ところが、中央図書館側はそのとき約束したその他の資料の調査を長い間なさず、また連絡もしなかったので、遺族の側から契約不履行による資料返却要求がなされ、最終的には秋葉市長の裁断によって返却されることになったと聞く。私は長く「広島に文学館を!市民の会」の代表として文学館創設運動に携わってきたので、こんな時こそ広島に文学館があればと思った次第である。広島市は文学館創設運動が起こった1987年に、中央図書館に間に合わせの「広島文学資料室」を作り、文学館の必要はなくなったと言ってきたが、図書館が文学館の役割を果たすには荷が重過ぎるのである。原爆文学に限っても、被爆後63年も経ち、作者は亡くなり、遺族も高齢化する時代になった。広島の文学と文学資料の行く末が案じられるこの秋であった。広島芸術学会事務局から※かねてより気になっていたのですが、会報を発行する合間に、皆様にお知らせしたい情報が届くことがあります。その場合、Eメールをお使いの方には一括でお知らせできるかと思います。ご希望の方は事務局(大橋事務局長のEメールアドレス)まで、お名前とEメールアドレスをお知らせください。※以前に、広島芸術学会についてのアンケートを同封させていただきました。まだお送りでない方は今からでも、ご記入の上、事務局宛にFAX(082-506-3062)でお送りください。
〒739-8521 東広島市鏡山1-7-1広島大学大学院総合科学研究科人間文化研究講座気付 TEL 082-424-6333 or 6139 / FAX 082-424-0752 / E-Mail hirogei@hiroshima-u.ac.jp
| Copyright 2012 HIROSHIMA SOCIETY FOR SCIENCE OF ARTS All Rights Reserved.