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広島芸術学会会報 第102号
密かな音楽の愉しみ作曲家・即興演奏家 寺内 大輔 2007年から、私のウェブサイト内に「密かな音楽の愉しみ」という読者投稿のページを設けている。日常的で個人的な音の楽しみ方をテーマとし、派手に盛り上がりこそしないが、地味な人気に支えられている。投稿の多くは、周囲の環境に対して何らかの働きかけをすることによって得られる愉しみだ。 「扇風機に向かって声を出して、音の震えを楽しむ」といった、多くの人の共感を呼びそうなものもあれば、「旅行中のトランクのタイヤが作り出すリズムによって特定の旅情を感じる」など、その人自身にしかわからないであろう個人的な愉しみもある。 他にも、「朝起きて背伸びした時に耳の後ろあたりに響く体内の音を聴く」、「入浴中、浴槽の床を指で擦ってその音を楽しむ」、「階段を歩きながら、近くにいる人の足取りの裏拍になるように歩く」、「自動車の運転中、前の車のウインカーの点滅と、車内で流れている音楽の拍が合うと嬉しい」、「運転中、車内のラジオで流れている歌と一緒に歌う。途中トンネルなどで電波が遮断され聴こえなくなっても歌い続けてみる。トンネルから出てラジオが聴こえるようになった瞬間、続けていた歌がピッタリ合っていると嬉しい」など、約30の興味深い投稿が掲載されている。 これらの投稿に共通するのは、自分自身の感覚・感性への気づきである。また、さまざまなサウンドスケープ*を肌で感じ、そこに自分との関係を見出していくという作業は、「聴く」という行為に潜むクリエイティヴィティの豊かさをも顕わにしてくれる。密かな音楽の愉しみ―――いささか内向きではあるものの、誰かに聴かせることを目的とした音楽にはない魅力を持ち、人と音楽との関わりの根本を再認識させてくれるものとして、極めて奥深いテーマである。また、こうした愉しみは、人生の幸福感を増すと言っても決して大げさではないだろう。寺内大輔ウェブサイトhttp://dterauchi.com「密かな音楽の愉しみ」投稿募集中。*作曲家、R. マリーシェーファーによる造語。「音の風景」と訳せば良いだろう。投稿・エッセイバークの肖像(その1)―ブリストル陶器と自由と妻ジェーン―広島大学大学院准教授・美学芸術学 桑島 秀樹 2007年3月、僕は、大英博物館で思わぬ出遭いに興奮した。アイルランド出身の美学者で政治家であったエドマンド・バーク(1729-97)の妻ジェーン(バースの医師ニュージェントの娘)に贈られた、1774年バーク議員当選祝いのカップ&ソーサーを見つけたからだ――後に「バーク・サーヴィス」と呼ばれる優品陶磁器セットの一脚だと判明。工房は英ブリストルで、製 者はリチャード&ジョン・チャンピオン。では、この陶器とバークにはどんな関係があったのか?僕は、ブリストルのクエーカー商人リチャード・チャンピオン(1743-91)の名には聞き覚えがあった。 18世紀中葉のブリストルは、北米やアイルランドの植民地貿易で潤う港湾都市。イングランドでは第二の都市(人口5万)だった。米カロライナとの取引もある非国教徒のチャンピオンは、18世紀商業社会の申し子だったといえよう。他方、バークは、1765年にロッキンガム派ウィッグの政治家として英国下院に登場。68年の再選出後にはロンドン北西郊に邸宅付地所を購入し、「カントリー・ジェントルマン」の階梯を昇りつつあった(70年にはニューヨーク代理人)。 そんな中、陶器製 の1774年、バークに大きな転機が訪れた。秋の議会解散と同時に前選挙区からの選出権を失い、紆余曲折の末―ブリストルへの招請話もあったが頓挫―ロッキンガムの地元ヨークシャー・モールトンからの出馬となった。北の無風区モールトンでは無理なく当選。しかし当選確定後、ブリストルのチャンピオンから正式な招請状が届く。バークは夜を徹し馬車を南へ走らせた。結果、大商業都市での劇的な立候補そして当選を迎える(到着・当選後の有名な演説が残る)。英国国会議員としての彼は、米・愛・印など植民地人への市民権付与と自由競争貿易の必要を説いていた。彼の思想は、新興ブリストル商人にとって理論的支えだったのである。 じっくりカップ&ソーサーを観てみよう。「エナメル色陶材」「金メッキ」仕上げの高磁器。つまり高温焼成の真磁器で、まさに中国やマイセンの製法を模した製品である。他の英国窯のものと比べても特徴的な逸品だ。では、描かれた図案はどうか。左に古代ローマ兵士風のバーク、右に豊穣の角をもつヴィーナス風のジェーン。中央にキューピッドの立つ紋章付石碑があり、《ニュージェントを串刺しにするバークの武器》とある。ニュージェントは妻の旧姓だが、ブリストルの前任ウィッグ議員の名でもあった。今回の出馬はこの古参議員の勇退により実現したもの。 さらによく見ると、バークのもつ槍の切っ先は「フリージア帽」を頂く。この帽子はフランス革命後に「自由」の象徴として頻出する。だが、当時の英国では「言論の自由」論者ウィルクスの戯画ですでに知られていた。晩年、反仏革命論で根っからの「保守主義者」とされたバーク。しかし1770年代には、「自由」と「民衆」の代弁者と見なされていたことは興味深い。広島芸術学会第86回例会報告① 近代日本工芸と植民地発表:広島大学 西原 大輔報告:広島大学 伊藤奈保子 日本の近代工芸の歴史は、日本の帝国の歩みと軌を一にしていた。即ち1910年代、日本のアジアにおける植民地化とともに、工芸家たちはその行動範囲を各地へと広げ、西原氏曰く「鉄砲の道筋をたどった近代日本工芸」。それが今回の研究発表の趣旨であったように思われる。 氏は近代日本文学と中国文学の比較を専門とされるが、アジア関係の文学を調べる中、美術史家の名があがることから、工芸について調べるに至ったという。近代日本の工芸史を振り返ると、明治期は、美術品というより外貨稼ぎのための商品であり、生糸、茶に次ぐ輸出品であった。海外に多く残存する作品群をみれば、日本の美意識から離れた欧米嗜好に添った制作であることは明らかである。続く大正期以降は、欧米から日本国内へと美の価値基準が移行、アジアへの植民地政策がとられると、作家たちは現地へと赴き、発掘や調査から当地の新たな技法やデザイン、題材を取り入れる。大東亜戦争が始まると、奢侈品、製 販売制限規制「ぜいたくは敵だ」を唱う1940年7月7日発令「七七禁令」のもと、高価な金箔、漆などを扱う工芸は壊滅的な状況に陥る。 従来、近代日本工芸は、戦争に積極的に関わらなかったように捉えられてきたが、氏の研究によると、その実態は思いの外、愛国的であった面があるという。新たな近代工芸の姿が浮かび上がった。現在、はつかいち美術ギャラリーにて、輸出工芸「宮川香山展」が開催されている。必見。② C. リーデルによるH. シュッツの受難曲の演奏実践―「19世紀的シュッツ」の真相 ―発表&報告:沖縄県立芸術大学 朝山奈津子 本発表の主旨は、16世紀の音楽作品を19世紀半ばに演奏する際に、大きな変更が加えられたことを報告し、その編曲の文脈、理由、意義を考察することにあった。質疑では、音楽学以外の専門家から貴重なご意見、ご感想を頂戴することができた。 作品の同一性に関して、シュッツの原曲とリーデルの編曲があまりに違うことが明らかであるのに、なにをもって両者を同じ作品と言えるのか、2つは別の作品ではないのか、という質問を頂いた。19世紀の知識人は、楽譜に書き表されていない、作曲家ですら気付いていない「本質」の存在を信じ、それを明らかにするためには、形式、すなわち作曲家が指定した演奏方法を変えることも躊躇わなかった。また編曲は、聴衆の好みに合わせるという、いわば妥協的な考えよりも、作品の本質をよりうまく引き出すという発展的な考えに基づいて行われたといえる。 音楽受容を歴史的な観点から扱うことそれ自体の意義は何か、というきわめて根本的な質問も頂いた。私の持つ基本的な疑問は、作品や音楽に対する判断が時代により場所により多様に変化するのはなぜか、という点にある。そして、その中にあって変わらないものを明らかにするのが、研究の目的である。フロアからはさらに、変わらないものとは何か、との質問が出た。「変わらないもの」が「ある」ということをどう証明するのか、それは一生の課題であるが、少なくとも今の私にとって「変わらないもの」とは、音楽が与えてくれる喜びである。これがもはや学術的な研究報告の域を逸脱した答えであることは承知している。しかし、音楽や芸術への自分自身の感性を信じていなくては、研究は行えない。私は、自分が何故に音楽に感動するのか知りたい、というごく個人的な動機をもって勉強を続けていることを、質疑応答の中であらためて気付かされた。ご清聴下さった皆様に心から感謝する。
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