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広島芸術学会会報 第107号
感性のこどもたち千代章一郎 「こどもの生活環境についても安全と危険、学びと遊び、家庭と学校などについて、従来の考え方では理解できない様々な問題が噴出し、こども環境はゲーテッド・コミュニティのように囲い込まれ、バブル・ラップされて管理されています。しかし一方で、メディアの発達によって、様々な情報が無防備に侵入していることも事実です。こどもたち自身が、主体的に生活環境を育んでいるという感覚は希薄になっているように思われます。こどもたちの豊かな「感性」はどこに発揮されているのでしょうか。それとも衰退しているのでしょうか。あるいは大人が気付いていないだけでしょうか。」 これは「こども環境学会大会(広島)」(平成22年4月22日(木)?25日(日)開催。詳しくは、http://www.sense-of-children.com)の問題提起として発表したものですが、実はこの文章、「こども」と「大人」を入れ替えても同じことのようで、現代日本社会の貧困化あるいは幼児化を示しているように見えます。 そもそも「感性」とはほとんど外国語に翻訳不可能な日本的概念です。プラトンのaisthesisにまで遡っても、それは「美」だけには限らないようなのですが、近代に至って、「芸術」の世界に「感性」が受動的な問題群として囲い込まれていきます。しかしどうやら、「感性」は「遊び」「学び」などの様々な場面で、衣食住に関わる環境との関わりを、五感を通して身をもって実践していく非言語的なコミュニケーションにおける感受性と感情と考えることができるようです。それは身に付けるべき能力ではなく、本来、誰にでも備わっているものの特性です。大人もこどもも変わりはありません。しかし身体を取り巻く時間と場所に呼応して磨かれるものもあれば、錆び付くものもあります。 たしかに、「持続可能な社会」の実現のためには、「知性」が必要です。しかしそれと対をなす「感性」もまた、本当に豊かな環境の実現に必要不可 であると考えられます。現代の脳科学においても、幼児期に言語が獲得されていく以前の「感性」のはたらきの持続がこどもの成育にとっていかに大切かが明らかにされつつあります。環境の生命的持続において、合理性を超えた「感性」の働きは極めて重要であると思われるのです。それは「ゆとり教育」などに矮小化されるべきではありません。 被爆地広島市は、振り返ってみると、明治期より続く教育の伝統や戦後の丹下健三の平和都市構想に至るまで、こども環境を育んできた都市です。そのような場所で、生き生きとした人間の「感性」の再構築をめざしていきたいと思うのです。(せんだい しょういちろう・広島大学大学院工学研究科)第90回例会報告研究発表①「近現代イギリスのおける景観美と都市構想」発表:広島大学大学院 大島 葉月報告:広島大学4年生 小野 未千恵 大島さんの研究は、近現代イギリスの諸都市における都市の発達や景観について、その思想や計画的「街づくり」の実践を芸術文化論の視点から考察するというものだった。19世紀末にイギリスで起こった田園都市運動は、エベネザー・ハワードの田園都市論提唱から始まった。田園都市とは計画された自己完結型の都市であり、レッチワースとウェルウィンに建設される。また、同時期にはヘンリエッタ・バーネットの発案により、ロンドン近郊のハムステッドに田園郊外が建設された。だが、田園都市と田園郊外どちらにおいても、社会的平衡を目指すがその実現は難しく、住民が富裕層に偏ったという。 アメリカでは19世紀末から20世紀初頭にかけて都市美運動と呼ばれる都市美化運動が起こる。アメリカの郊外住宅地の開発にはイギリスの田園都市運動が多くの影響を与えていた一方、ラドバーンで高く評価された歩車分離の計画手法が、反対にその後イギリスのニュータウンで採用されるということも起こった。大島さんによればニュータウンは、自足完結性と社会的平衡を原則とする点で田園都市の考えを受け継いでいるが、国によって管理されるなどの点で田園都市とは本質的に異なるという。 田園都市には新しさや快適さのイメージが伴い、都市の美しさという田園都市の魅力と田園都市思想が拮抗したことを大島さんは指摘した。コミュニティを作り出すという理念と、実際の都市の両方があって初めて都市はつくられる。田園都市は理念のままに実現されたとは言い難く、問題点としては、人為的に都市をつくりだすことが現実的でなかったことや、財政に苦しんだことが挙げられるという。その上で大島さんは、実際に都市をつくった意義は小さくはないとした。大島さんが特に丁寧に説明したように、ハムステッドの田園郊外においては、自然の溢れるオープンスペースがゆとりのある生活のための場として機能した。こうしたことを通して人々は、快適な暮らしを意識し、求めるようになっていったということだ。田園都市は都市のあり方を問うものとして登場した、と大島さんは締め括った。 質疑応答の時間では次のことが明らかとなった。まず、建築家アンウィンは中世の生活を理想としていたが、必ずしもそこに戻ろうとしたわけではなく、中世の生活というイメージをうまく利用しようとした点は否定できないこと。次に、田園都市の開発は上の者から下の者へ与えるという姿勢でなされたため、生活状況が良くない者たちが現実にどのような改善を望んでいたかは完全には把握されていなかっただろうと思われること。 今日では、「住」環境に自分らしさを求める者も少なくない。発表を通して、現代の「住」環境に対する意識についても改めて考えさせられ、非常に興味深かった。研究発表②静岡県平野美術館所蔵「二河白道図」について発表:広島大学大学院 高村 佳子報告:広島大学 菅村 亨 「二河白道」と聞いてすぐに何のことかを了解する人は、今日、あまりいないのではないだろうか。衆生の煩悩を示す恐ろしい火と水の河に挟まれた細く白い道がある。その白道こそが阿弥陀を頼み、ひたすらその浄土往生を願う深く清い信心そのものであり、極楽浄土へ到る唯一の道であると説く譬喩(二河譬)である。この譬喩は唐時代に中国浄土教を大成した善導の『観無量寿経疏』に説かれており、善導の教えに強い影響を受けた法然がこの譬喩をもとにした「二河白道図」を案出したといわれている。ただ、浄土信仰者の歩むべき道を示した「二河白道図」は、鎌倉時代以降、阿弥陀浄土信仰の諸宗派で盛んに制作されている。高村さんはそうした「二河白道図」のなかで、古くから知られながら十分な検討がなされていなかった平野美術館所蔵本を詳細に調査し、新たに得た知見をもとにその特質の一端を明らかにされた。 発表では、基本的に水・火の二河、浄土、娑婆(現世)の3つの場面で構成されるといった「二河白道図」の概要が説明された後、平野美術館本の浄土と現世の場面には二河譬に言及されない図様が多数描かれていることが指摘され、それらの要 それぞれについてその典拠と解釈が示された。そうした中で特に報告者の興味をひいたのが〈暴れ馬と猿〉、〈浄土に描かれる金色の橋と娑婆に描かれる柳の木〉の2点である。 〈暴れ馬と猿〉は「意馬心猿」ということばでしばしば語られる、人々の煩悩によって定まらない心を示すものであり、画面最下段に置かれることによって画面全体で語られる話の発端に位置付けられ、それが善導の『観経疏』の序に相当する部分のイメージ化であると解釈された。この図様と『観経疏』の構成とを重ねた解釈はたいへんユニークである。 また、〈金色の橋と柳の木〉を高村さんは、中世における宇治名所図から柳橋水車図の形成への流れの中で形作られてきた、彼岸と此岸との境界性を持つ金色の橋と柳の木に込められた宇治の地に対する共同的宗教的イメージとを重ね合わせた隠喩的意味が入れ籠状に組み込まれたものであり、柳の木は娑婆の場面に描かれることにより現世から浄土へ到る道標となっていると説明された。二河白道の思想と柳橋水車図を結びつける考えはこれまでにも示されているが、具体的な作品の上でそれを読み解いた点は貴重であろう。 PCとプレゼンテーションソフトを活用した発表は複雑な内容がたいへん判り易く整理されて、多くの興味深い指摘がなされたように思う。今後も、例えば、白道を進むのが一般の人ではなく、なぜ僧侶なのかといった疑問をはじめとする、こうした「二河白道図」がどのような場で成立し、受容されたかという課題についても知見を示していって下さることをお願いしたい。展評「VOCA展 2010」現代美術の展望 ― 新しい平面の作家たち2010年3月14日~30日 上野の森美術館主催:「VOCA展」実行委員会財団法人日本美術協会・上野の森美術館広島県立美術館次長兼学芸課長 松田 弘 VOCA展の「VOCA」とは、The Vision of Contemporary Artのイニシャルを繋げたもの。現代美術の新しい視覚と造形を世に問いかけるもので、40歳以下の作家による平面作品のみを対象としている。全国の美術館学芸員、学識経験者、ジャーナリストなどから推薦委員を委嘱し、彼らから推薦された作家がそれに応じて出品している。推薦された作品は選別されず、すべて展示される。今回は35人が出品している。この中から、7名の選考委員によりVOCA賞1点、VOCA奨励賞2名、佳作賞2名、大原美術館賞1名がそれぞれ受賞した。 出品作品全体を観て感じたことは、作家が現実世界とコミュニケーションをとることの困難さである。作家によってはある程度現実世界と接点を持とうとしているものもいるが、作品からはその困難さが逆に伝わってくる。もちろん平面作家が現実のリアルな世界を表現しなければならない、などというつもりはない。二次元のヴィジョンの中に、純粋に色彩と形体と空間と物質的なことも含め新しい表現技術を組み合わせて表現することに全精力と創 力を費やす若い画家たちの誠実さは十分伝わってくる。 しかし、いまさら言うことでもないとは思うが、20世紀のモダニズムによって求められた二次元の造形平面としての絵画の自律性と純粋性(歴史や宗教や政治など現実の世事からの自立)は、それ自身が自己目的化してしまい、絵画が本来持っていたもう一つの力強さ、つまり現実世界あるいは現実の社会とコミュニケーションし、画家が表現者として深いところで、それらとどのように関わっているかを示す力を失わせてきたのも事実である。 近年の具象的な絵画の隆盛は、これに対する反動か反省の現れとも理解できる。実際、今回のVOCA展の出品作品でも、風景や人体など具象的なモティーフが描かれているものがある。しかし、そこに漂うのは実存の喪失かリアルな自分を実感することの困難さ、あるいは特定のメージに仮託し、自分自身を表に出すことを避けるような、ある種の引きこもりのような閉塞感である。この閉塞感こそが現にリアルな現実感であるといえばそのとおりかもしれない。若い画家たちは時代の閉塞感に敏感に反応して、それを 形化しているのだ、といえばそうかもしれない。 しかし、どうであろう。逆に現在の閉塞感をトレンドとして意識し、あるいは無意識に意識し、それに戦略的に迎合している危険性はないのであろうか。実は、出品作家たちは推薦者が全国にまたがっているにも関わらず、例外はあるにせよほとんどが首都圏か愛知、京都などの美大出身者である。彼らはこの現在の美術潮流の真っただ中にいるのであり、それから無縁でいることは相当の個性と自立心が必要であろう。困難なことかもしれない。 だが、私はないものねだりかもしれないが、これらの潮流から無縁で明るく、人間と人生を肯定する野太い個性を観てみたい。その方法として、あっさり、各県から一人ずつの選抜制にしたらどうだろう。グローバル化の進んだ現代では無意味という方もいるかもしれないが、存外私たちの知らない個性が存在しているかもしれない。地方に住み、そこで汗にまみれて生活しているということの意味は、決して小さくないと思うのだが・・・。インフォメーション■こども環境学会 2010年大会[広島]「感性のこどもたち」現代社会では、さまざまな価値観がゆらぎ、従来型の考えが通用しなくなってきている。こども環境についても安全と危険、学びと遊び、家庭と学校などについて、こどもたち自身が、主体的に生活環境を育んでいるという感覚は希薄になっていると思われる。「知性」と対をなすこどもたちの身体に根差した、ことば以前の豊かな「感性」はどこに発揮されているのだろうか。それとも衰退しているのだろうか。あるいは大人が気づいていないだけだろうか。今大会では、「感性」の主体となるこどもの眼差しで4つのテーマ「アートな感性」「空間の体験」「平和への感性」「感じる手」を設定し、分科会とワークショップ、ギャラリーを構成し、共通テーマを大会での提言につなげていく。(案内ちらしから)日時/4月22日(木)~25日(日)場所/22日:エクスカーション (鶴学園なぎさ公園小学校・広島女学院ゲーンズ幼稚園、新広島市民球場) 23日:広島平和記念資料館東館メモリアルホール 24・25日:主会場は広島市まちづくり市民交流プラザと袋町小学校料金/大会23日~25日共通参加費 ・広島市民は無料(資料代は別途) ・市民以外は6000円(当日参加6500円)問合せ/こども環境学会2010大会[広島]実行委員会 事務局電 話/082-545-7611H P/http://www.children-environment.org■ギャラリーGオリジナル企画展「迫 幸一・モノトーンの世界」NPO法人アートプラットホームGは2009年の発足以来、広島の戦前・戦後を生き抜いた作家を紹介する企画展シリーズを開催しており、今回は写真家・迫 幸一(1918~)を取り上げる。迫は、独特の抽象表現と叙情性豊かな具象表現で知られ、欧米の著名美術館に作品が収録されるなど、国内外で高い評価を受けている。日時/4月27日(火)~5月9日(日) 11時~20時 (但し5月2日は休館、5月2・9日は17時まで)場所/ギャラリーG(広島市中区上八丁堀4-1)問合せ/ギャラリーG電 話/082-211-3260
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