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                                            広島芸術学会会報 第109号

 

 感動の共有から始めよう
― 会長に就任して―  広島芸術学会会長 金田 晉

 昨夜、今年のひろしまオペラルネッサンス事業「カルメル会修道女の対話」を観た。あるいは聴いた。フランス革命の高揚期の後の観念だけがますます急進化してゆく時代の恐怖政治のもとで、実際に起こった悲劇が主題である。最後、修道女たちは観客に向かって「サルヴェ・レジーナ」を歌いながら、一人ずつ一歩退いて現世に別れの挨拶を送り、後ろに一歩退いてそれから踵を返して、妙に明るい光の空間の中に黒いシルエットとなって歩き去ってゆく。ギロチンの音が一瞬流れを断ち切る。そしてまた一人の修道女が歩き始める。プーランクの美しい作曲に導かれながら感極まってゆくその大団円に、私は感動した。自分が母性を引き受けた以上、修道女すべての命を守りたいと諭す新修道院長リドワーヌの台詞も、それが成就できなかったがゆえに一層心に響いた。実際に起こったこの事件の10日後に恐怖政治は終焉したという。
 世の中は、生きることに一生懸命である。医療技術の進歩が求められ、福祉の充実が叫ばれる。それはそれで大切なことであるが、一方で死を、そしてその不条理を、しっかり見つめる時も必要である。私たちもまた、この年齢に至るまで幾度人の死に立会い、その不条理を経験してきただろう。
それがあるからこそ「カルメル会修道女」の死の受忍の姿に私たちの魂はかきむしられるほどに揺すぶられたのである。今朝の中国新聞では、観衆は650人とあった。幕が引いたとき、その全員から轟くような拍手が起こって、しばらく終わることがなかった。舞台で演じた者も観客席で観ていた者もそこでは一体であった。
 その感動の共有に、広島芸術学会の存立基盤があるはずだ。初心を忘れてはならないと、私は思う。創立24年目にして初めて行われた委員選挙をもとに、会長に選ばれた時、私はまずそのことを思った。
 私たちの学会は、研究者と作家(演奏者)と市民の三本柱で成り立っている。芸術への向かい方はそれぞれに違う。研究者といっても、美術や音楽や舞台芸術や美学・哲学で関心のあり方がずいぶん違う。作家や市民となるともっと多様で多彩だ。しかもその違いを越えて、自己に謙虚で、他を尊敬しながら生まれる連帯があるはずだ。それを拠り所にしながら、芸術学会の次の一歩を踏み出してゆきたい(7月29日記)。



広島芸術学会第24回大会報告

●総会

 去る7月24日9時30分から、広島芸術学会第24回総会・大会が広島県立美術館講堂(午後のシンポジウムは3階会議室)で開催された。今年は広島芸術学会のほぼ4半世紀になる歴史のなかで特筆される年である。従来、芸術学会では、代表委員(設立以来、金田晋が務めてきた)が事務局でまとめた委員名簿を総会で読み上げ、承認を受けるという選出方法を採用してきた。だがこの委員の選出方法が抜本的に改められた。新たに委員の選挙規定が定められ、先般はじめて会員の投票による委員の選挙が実施された。目的は、組織の民主的運営、学会運営に関する会員の意見の反 を図るためである。まず会員の投票によって上位得票者10名が委員に選出され、次にこの委員の互選によって会長が選出された。さらに会長は、地域、職域、ジャンル、世代等を勘案して5名の委員、2名の監査及び事務局長(以上、総会で承認)を委嘱し、新しい役員体制ができあがった(名簿は別記)。
 総会では、会長が20回大会以来の本学会の改革と、今期の課題について所信表明がなされた。本学会は創設以来、研究者、作家(演奏家を含む)、市民の3本柱で構成されることが謳われてきたが、その理念を現実の活動において実現するよう、一層の努力をする、ことを明確にした。この2年間、①年報の改革、②例会の改革、③事務局の合理化、④今回の新しい委員選挙、等々。
 次に、水島裕雅委員が議長に選出され、事業報告(青木孝夫委員)、決算報告(大橋啓一委員)、監査報告(原田佳子監査)、会長推薦委員及び監査の承認(金田晉会長)、事業計画(青木孝夫委員)、予算案(大橋啓一委員)が順次報告され、それぞれ承認を受けた。

<新 委 員>(あいうえお順)
会長:金田 晉   副会長:青木孝夫   事務局長:大橋啓一
委員:井野口慧子、倉橋清方、桑島秀樹、末永航、菅村 亨、関村 誠、
谷藤史彦、伴谷晃二、馬場有里子、松田 弘、水島裕雅、吉井 章
監査:竹澤雄三、原田佳子



●研究発表

発表②
善導大師像について ─知恩寺本画像を中心として─
発表:広島大学 髙間由香里
報告:広島大学 菅村 亨

 善導は中国・唐時代の僧で、浄土教の大成者であり、日本の浄土宗の開祖法然が善導の教えを拠としたことが広く知られている。その肖像画は日本に多く現存しているが、その多くは像の半身を金色に表し、また、善導が合掌して称名念仏すると口から発した念仏が阿弥陀の姿になって顕れたという奇瑞説話に基づいて口中から化仏を発するすがたに描いている。髙間さんはそうした善導大師画像の代表的作例の一つである知恩寺本(重要文化財)の位置づけと、そうした善導像から見えてくる浄土宗勃興期の様相についての見解を説かれた。
 発表では、赤外線やX線等を用いた光画像計測法による調査にもとづいて、知恩寺本の材質、技法、表現等の詳細が紹介された。眼の部分の描線と着彩の精緻さ、歯の表現における彫像の感覚、あるいは南宋画的な自然主義的表現をうかがわせる部分がある一方、写し崩れの描写がみられることなどがつぎつぎと指摘され、この図が日本でつくられた模本を原本として14世紀前半に制作されたものであることが説明された。
 さらに、善導の像高80cmにおよぶ入念な りの大作であることなどから、この図が浄土宗の中でも財力のあった鎮西流のもとで整備されたということが述べられるとともに、そうした善導像整備の背景として、まだ新興宗派であった浄土宗教団内部の、統一へ向けての動きがあったと指摘された。すなわち、法然が善導を阿弥陀の化身として称揚したことをもとに、教団では法然をそれと同様に位置付け、教義の整備と強化をはかろうとしていたことである。浄土宗教団はたびたび法難に遭い、法然の死後、分派的、分裂的になって統一を失っていったが、そうした不統一の是正に力を尽くしたのが鎮西流の良忠らであったことなどを考えると発表者の見解も十分了解できた。
 作品画面細部の顕微写真やX線透過画像など、普段私たちが接することのあまりない画像情報に驚かされた。ただ、こうした情報は、医師がレントゲン写真から病状を探るのと同様に、読み取る側の力量を求める一面があるように感じる。作品のモノとしての特質を徹底的、詳細に分析することを通して、さらに作品の内容、成り立ち、意義を明らかにするという研究手法の魅力を知るとともに、そうした研究よってこの作品の意義を改めて知ることができた。発表者に感謝したい。


発表③
ヤン・ファン・スコーレル作《エルサレム十礼者たちの肖像画》考察
発表:尾道大学 深谷訓子
報告:広島市立大学 大井健地

 「集団肖像画」といえば、まずレンブラントの諸作品、わけても名品《夜警》(1642年)を思い浮かべる。現実社会の俗っぽさからある高貴へ、深遠さへと換骨脱胎するレンブラントの画境。仮空の登場人物も多いというが、何よりあの、舞いおりてきた異界の白無垢少女天使。そしてレンブラントに比べれば前段階の位置たらざるを得ないがしかし注目すべき早業筆致で現世の人間の屈するところのない、高らかで率直な笑いに満ちたフランツ・ハルスのにぎやかな画面。
 「集団肖像画」(ドイツ語でGruppenbild)は西洋絵画の一ジャンル。深谷訓子氏の発表に動かされ、アロイス・リーグル『オランダ集団肖像画』(勝國興訳、中央公論美術出版)をめくり、講談社版『名画への旅14巻、市民たちの画廊』(20頁に《ハーレムのエルサレム巡礼者たちの集団肖像画》の小さいがカラー図版がある)を参照した。またフリートレンダー『ネーデルランド絵画史』(斎藤稔ほか訳、岩崎美術社の「ヤン・ヴァン・スホーレル」伝を読んだ。
 多数の寄進者像に集団肖像画のそもそものはじまりがある。スコーレルの描く集団はエルサレム巡礼者の像である。1480年代から1520年代まで時間差のある別々の巡礼者を上半身だけ2列に、あたかも行進中の行列に見立てている。ハールレム作品の12人のうち、右から3番目が自画像。人物の下の貼り紙がめくれているのが目印(「アクセント」)になっている)。「エルサレム兄弟会」(聖墳墓同信徒)の巡礼者ら、手を添え、肩に担ぐ棕櫚の枝が整列の行進を際だたせる。棕櫚で区切られて上部にそれぞれの紋章が示される。図説絵ときである。
 16世紀巡礼文学によれば、当時の巡礼が物見遊山的であったそうだが、一生に一度の大旅行であるはず。
 スコーレルはイタリアを経由してエルサレムへ巡礼した。ヴェネツィアでスコーレルが見た絵の例として深谷さんが挙げた2点は、①カルパッチオ《聖ウルシェラ伝》(1493年)、②ジェンティーレ・ベッリーニ《サンマルコ広場の行列》(1492年)。不思議な熱気と不思議な冷気が混在しているとも僕には思える画風。カルパッチオは混みいっているが、ベッリーニのあの絵には広々とした広場の空間のひろがりがある。いずれも古拙さをどこかに残してはいるが、それ故に大衆に親しみやすい、図解的な説話性を宿している。スコーレルは自己の資質と文化風土的な器量に応じてこの2点の良さを吸収したのだ。
 肖像画史は瞑想的な祈祷者像から活動的な世俗人物像に移行する。スコーレルはそのはざまでユニークな集団肖像画を残したのであった。
 肖像画は(発音不明瞭な発語者が言うと、音だけはとても似ているが)想像画ではない。仏さまの肖像画は存在しない。
 肖像画の現世的性格を思えば、単一の肖像画が束になって構成される威厳ある集団肖像画が必要とされる条件はあると思うが、16、17世紀のオランダ以外では流行らなかった。

(研究発表①は次号に掲載します)


●シンポジウム「ひろしまを描く──映像とことば」

報告①
日本と中国の映画を取り巻く状況について
パネリスト・広島大学 袁 葉

1 映画環境に恵まれた街-広島

 日本の同規模の都市では、アート系映画館は1館か2館であるのに対して、広島ではサロンシネマ(ⅠⅡ)、シネツイン(ⅠⅡ)、そして来る11月にオープンするそれらの姉妹館2館、横川シネマと計7館に上る。また「広島市映像文化ライブラリー」では、日本 画の名作が上映されるほか、年に数回は外国映画特集や、映画人による講演会(無料)、活弁の実演も行われる。3D映像の時代到来にもかかわらず、伝統文化継承の努力に感銘を受けている。同種の公共施設は、東京、京都、福岡、川崎にしかないそうだ。
 映画愛好家の自主運営による「広島映画サークル」は、年に7回、県立美術館の講堂で、近年の洋画と邦画の秀作を上映する。
 その他、「広島国際アニメーションフェスティバル」「ヒロシマ平和映画祭」「ダマー映画祭inヒロシマ」といった国際映画祭も開催されている。
 広島は、「原爆が投下された街」から「水と緑と文化の街」へと生まれ変わった。このような 画を取り巻く状況からも、垣間見ることができる。

2 ふるさと北京の映画事情

 人口1,700万人のこの大都会には、アート系の映画館は一つもない。上映されているのは、国産映画、ハリウッド映画、香港映画であり、たまに韓国や日本の映画も登場する。だが、映画館はもはや「貧者と弱者の楽園」ではなくなっている。
 その原因は、まず入場料が高くなったこと。一回70~80元(千円前後)というのは、2元で地下鉄乗り放題の北京市民にとって、とてつもない贅沢だ。さらに、DVDがたちまち出回る。しかも20元(約260円) と安価。
 中央テレビ局では、無料の 画チャンネルが観られる。それに、毎日欧米やアジア、南米などの連続ドラマが放送されている。世界各地の風俗習慣や考え方は、この「窓口」を通して知ることができる。日本のアート系映画館の特色と共通している。

3 中国映画の異なる評価

 海外で高い評価を受けた映画が、必ずしも国内で支持されるわけではない。以下、ヴェネチア国際映画祭グランプリの2作について取り上げる。
(1) チャン・イーモウ監督の『あの子を探して』(99年)
 中国の山奥の村に小学校の代用教員としてやってきた13歳の少女と、児童たちの触れ合いの物語。奥地の貧しい現状が、ドキュメンタリータッチで し出され、国内では当時、「中国の恥さらし」とか「賞を獲るため外国人に媚びている」、香港では「売国奴」とまで言われた。
(2) ジャジャン・クー監督の『長江哀歌』(06年)
 長江の三峡ダム建設によって水没することになる街の、出稼ぎ労働者の日常がドキュメンタリー風に描かれている。受賞した上での公開にもかかわらず、観客席は閑散としていた。
街がやがて消える― 外国人にとっては哀愁が感じられることかも知れないが、古い地区が消えてゆくのは、中国では今や日常茶飯事だ。それに、出稼ぎ労働者よりも、富裕層になった成功者の方が脚光を浴びるご時世である。


報告②
「ひろしまを描く」場を今一度開くために
─ シンポジウム「ひろしまを描く─ ─映像とことば」を聴いて─
報告:広島市立大学 柿木伸之

 広島という街はしばしば映画の舞台となり、そのなかでいくつもの貌を見せてくれる。被曝して焦土と化した街、原爆によって愛する人や生活の基盤を奪われながらも生きていこうとする人々が身を寄せ合う街、あるいは法外な暴力がせめぎ合う街などとして、広島は映画のなかに描かれてきた。そして、映画化されたマルグリット・デュラスや井伏鱒二の仕事を挙げるまでもなく、広島を映画に描くことは、広島を語る言葉に深く根差してきた。「ひろしまを描く── 像とことば」をテーマに掲げた今回のシンポジウムは、パネリストたちのそれぞれ異なった現場の経験を踏まえながら、映画の舞台にして文学の生まれる場所としての広島の意義を再確認したうえで、この街が将来もさまざまな文学的ならびに映像的表現とその受容に開かれた場所「ひろしま」であり続ける可能性を探るものと言えよう。
 最初に映画の美術監督として活躍する部谷京子氏が、「映画で描く人、街、営み」と題して基調講演を行なった。制作に関わった映画の一部を見せながら、「俳優の肉体以外のすべてをデザインする」美術監督の仕事を、現場でのエピソードを交えながら生き生きと紹介する講演のなかで、一貫して強調されていたのは、場所との出会いが 画を生むということである。部谷氏は、美術監督として場所のもつ力に応えながらその空気感をも伝える映画を作りたいと語る一方で、福山での映画『少女たちの羅針盤』の制作が当地の人々に支えられていることを挙げ、そこに生まれる街の人々と映画の結びつきが、映画への愛着を呼び起こすことを指摘していた。福山と同じことを広島でできたら、と部谷氏は広島への強い思いを込めて述べていたが、その言葉を受け止めようとするとき、広島の映画文化の現状に思い至らざるをえない。
 パネリストの袁葉氏が述べていたように、広島という街は質の高い映画館に恵まれているし、映画を愛する市民による活動の盛んな街でもある。たしかに広島では市民の手による 画祭が定期的に開かれているし、この都市規模でこれほどアート系と呼ばれる映画作品に触れる機会が多い都市も珍しいだろう。しかしその一方で、最近の広島には次々と、しかも街の中心に程近い場所に郊外型の商業施設が造られ、そこに併設されたいわゆるシネコンが人々を集め始めている。非日常的な経験であるはずの映画鑑賞が、日常の消費生活の延長線上に移行しつつあるかのようだ。それとともに、もう一人のパネリストの蔵本順子氏が報告したように、街の中心の映画館が次々と姿を消している。こうしていとも簡単に、異質な個性の共存こそが培う都市の文化が空洞化することは、以前から広島の街に潜んでいた、言わば文化の足腰の弱さを露呈させたとも言えなくはない。
 シンポジウムの最後に、水島裕雅氏から、広島に文学館の建設を求める市民運動が最近活動停止に至った経緯が報告されたが、その要因の一つとして挙げられていたのが、市民の力強いサポートを得られなかったことである。そのことが意味するのは、広島から生まれた数々の優れた文学作品を愛し、読み継いでいく市民層が、とくに戦後育っていないことだという。この問題は、一本一本の 画への愛着が薄れるなか、都市の映画文化が危機に瀕していることとも通底する問題と思えてならない。そして、この問題の深刻化に拍車をかけているのが、広島市の行政の反文化性であろう。その文化行政からして、「ひろしまを描く」過去の作品を保存して伝え、広島から生まれる新たな作品の生成を見守り、それらを広く発信することに力を入れているようには見えない。
 水島氏によると、文学館建設運動の最も大きな障壁になったのは、広島市当局の無関心であった。貴重な文学資料が分散し、不十分な保存状態にある状況は待ったなしであるにもかかわらず。また最近では、田中宏の漫画『BAD BOYS』の映画化への協力を、「暴走族追放」へ向けた「全市一体」の取り組みに反するなどという、映画の内容への検閲的介入とも取れる理由で、広島フィルム・コミッションが市の関係当局とともに拒否するという事件が起きている。そして、ディスカッションの際に新聞記事にもとづいて述べたように、そのように公式の撮影協力を拒んだことが、映画の内容を問わないというフィルム・コミッションの原則に反することが問題となって、広島のフィルム・コミッションは日本の優れた映画撮影受け入れ組織との認定が受けられず、そのことは今後広島の街が、これまでのように優れた 画の生まれる場所、それによって映画史に名を刻まれる場所ではなくなることを意味しかねない。今や「ひろしまを描く」場が閉ざされつつあるのだ。
 このように「ひろしまを描く」文化の生成と継承が重大な危機に直面しているなかで、広島で芸術的表現とその批評的言説に携わる者に求められていることの一つは、『靖国』や『ザ・コーヴ』のような上映自粛の波が広がった映画をしっかりと上映し続ける街の映画館の取り組みを支えながら、それが守ろうとしている表現の自由とこれにもとづく文化を萎ませるような行政の失政に対しては、強く声を上げていくことであろう。さらに、一本一本の 画、一篇一篇の文学作品の魅力を広く伝える活動にも、これまで以上に取り組んでいく必要があるのではないか。これらが市民のあいだに共有されて初めて、「ひろしまを描く」場が広島の街に開かれるにちがいない。今回のシンポジウムでは、「ひろしまを描く」言葉と映像の文化の空間を今一度この街に開くために芸術に関わる者に課せられた、深刻な課題が浮き彫りになったのではないだろうか。

                             

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