エラヒ氏の研究発表の主眼は「アジア映画の視点からネオリアリズムの普遍性と可能性を問いなおす」ことであり、この課題を有名な二人のアジア人監督の作品「黒澤明の『生きる』とインド人サタジット・レイの『大地のうた』の分析」を通して追究することであった。氏はバングラデシュ出身の
画研究者であり、ベンガル地方の貧乏一家を描いた傑作『大地のうた』(ベンガル語の英語表記ではPather Panchali、英語タイトルSong of the Little Road、1955)を扱い、黒澤の『生きる』(1952)とも比較した研究発表は、興味をそそるものであった。タイトルが示すように、研究発表の狙いは、戦中戦後のイタリア映画と結びついた「ネオリアリズム」を、より大きな歴史的文脈に置き直すことで、この藝術概念を、イタリアの歴史的背景の中で深く理解しつつも、一方で普遍化し、その可能性をイタリアの拘束から放ち、他方で歴史的文化的多元性の中、とりわけアジアに於いて豊かに肉付けしようとするものであった。 比較の基軸となるのは、イタリア・ネオリアリズム
画の歴史的美学的背景である。一般に、ネオリアリズムは、第二次世界大戦の最中或いはその後に現れた旧式のイタリア映画の幻想的で感傷主義的な主題や手法を拒否し、野外撮影や「写実主義」的な映画手法を採用し、社会正義的主題に関心が向けられ、戦争や貧困、戦後復興、失職、苦悩が扱われ、厳しい生活の中での民衆の道徳的な健全性を擁護するメッセージ性が特徴的である。ネオリアリズムは、映画制作の手法や表現スタイルの変革と関わりつつ、他方で、描写内容に関し独自の道徳的関心を抱いていたのである。取り上げられた作品ならびに監督は、ロッセリーニやヴィスコンティあるいはまた『自転車泥棒』など著名であり、聴衆の興味を惹いた。 こうしたイタリア・ネオリアリズムの基本的な把握の上に、アジアの二人の著名な監督の作品が位置づけられ比較対照された。 『生きる』や『大地のうた』という作品には、近代化の過程での経済的な困窮や勤労者の苦悩をリアリズムの手法で描く点で、たしかにイタリア・ネオリアリズムの主題や制作姿勢と共通のものが見出せる。この点に関するエラヒ氏の指摘は、視聴覚
像を利用した具体的な作品分析を含む比較検討を通し明快であった。その一方、社会背景や物語の展開を越えて、映画作品の表現や手法に関するより具体的で精緻な分析が必要であり、この点に関する展開が今後の課題と思われた。 以上、該概念の歴史的背景や具体的な作品分析を含む研究発表は、最新の映画研究や関連文献への言及も怠りがなく興味深い上に、裨益させられたが、英語でなされた研究発表を聴衆が必ずしも容易に解するとは限らない以上、発表の梗概や資料を、予めもう少し丁寧に翻訳し会場で配布する等の配慮があれば、なお良かったと思う。 英文発表タイトルUnderstanding
Neorealism in Asian Cinema: Kurosawa’s Ikiru and Satyajit’s Pather Panchali