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広島芸術学会会報 第112号
「タスマニアの性と死と生 ~新設美術館MONAから浮かび上がるもの」 山下 寿水
本年1月21日、オーストラリア大陸南東に浮かぶタスマニア島に、ユニークな美術館が開館した。MONA(Museum of Old and New Art)と名付けられたその美術館は、文字通り「古代のアート」と「現代のアート」が展示室に併置されているという特色を持つ。 筆者は既に2月9日付の中国新聞にて、MONAと、同館所蔵の岡部昌生の作品《タスマニアのヒロシマ》について記したが、新聞紙上に載せるには忍びなくて割愛した「大人のディズニーランド」と呼ばれるMONAの一面について、ここでは紹介したい。 MONAは、数学者であり、ギャンブラーであり、アート・コレクターという、希少な肩書きを併せ持ったタスマニア出身の資産家、デビッド・ウォルシュによって建てられた。展示作品は「性と死」をテーマに掲げて蒐集されており、それらは眼を背けたくなるほどの暴力的な空間を生成していた。 例えば、ヴィム・デルヴォイエによる、食物を体内で消化する過程がガラス容器の中で再構成された人糞製
機《クロアカ》は臭気を撒き散らし、はたまた、ヤニス・クネリスによって吊り下げられた動物の肉塊は、今まさに血がしたたり凝固している様が視界に入り、動揺を誘う。 他にも、石膏で象られた数百人分の女性器、数体のミイラなどが連なり、(美術館が地下に建造されていることもあり、)「アングラ」という言葉を自然と想起させた。 それらの凄惨な展示室を抜け、地上出口へと繋がっているトンネルを通ったところに、岡部昌生の作品が設置されている。暗き地下から、光溢れる地上へ出たことも相まって、不思議と岡部の作品には暖かみを感じた。無論、岡部の作品は、旧国鉄宇品駅のプラットホームとして使われていた被爆石を用いたもので、そこには死者の歴史が堆積してあり、明るい作品とは言えない。しかし、そこには確かに「希望」があった。 岡部は「タスマニアの光に影響された」と語り、普段とは異なり、煌くような数色のクレヨンを用いて被爆石の表面を紙に転写していた。ちなみにMONAでは誰もが被爆石に触れてフロッタージュが出来る。数々の人がヒロシマの歴史に触れながら、フロッタージュという行為の魅力にとりつかれていた。そう、岡部の作品は「重い」テーマを背負っているが、フロッタージュ自体は原初的な「楽しい」行為でもある。「死と性」をテーマとした美術館だからこそ、逆説的に「生」というテーマを強く思い起こさせる印象を受けた。
(やました ひさな・広島県立美術館学芸員)
第94回例会報告
研究発表① 歌舞伎の再評価と花柳界における芸能の現状 発表:広島大学大学院社会科学研究科博士課程 中岡志保 報告:エリザベト音楽大学 馬場有里子
中岡氏の発表は、歌舞伎と花柳界という芸能の世界を対象に、前者と後者の歴史的経緯を重ね合わせつつ、特に後者の現状について文化人類学的見地からの調査・報告と検討を行うものだった。テーマ自体の新鮮さに加え、発表者自身が過去に花柳界での実際の経験をお持ちであるということから、実体験をふまえていてこその説得力もある、とても興味深い発表であった。今日ではユネスコの世界無形遺産として登録されるほど、伝統芸能としての揺るぎない地位を確立した歌舞伎は、江戸期の、性売買の要
が絡むこともあった芝居小屋の芸能的なものから、明治の近代化を経て現在のあり方へと変化してきた(文明開化で舞台に明るい照明が使用されるようになったことが意識の変化につながった、という指摘は、非常に面白い)。一方の花柳界─語義や定義は様々のようだが、中岡氏によれば「東京の料理屋、待合、置屋が一緒になったもの」─は、娼妓と芸妓の入り混じった状態から、やはり近代化・西欧化に合わせて芸妓・芸能として分離していく道を歩み、近年では「をどりの会」の開催に観光協会や日本芸術文化振興基金の後援も得ている。 あまり知ることのない花柳界の内実を垣間見せてもらえた貴重な発表であったが、歌舞伎は大舞台での演技になることで客との距離感が遠くなっていったが、花柳界にも同様のところがある、とする「失われたもの」への中岡氏の視点も興味深く感じた。
研究発表② 藤原佐理筆書状《頭弁帖》について 発表:ふくやま書道美術館 髙橋哲也 報告:ふくやま美術館 谷藤史彦
髙橋哲也氏の発表は、特定の書跡作品の研究であるが、広島芸術学会における初めての書道史の研究発表でもあった。重要美術品である藤原佐理(すけまさ)筆書状《頭弁帖》(現在、ふくやま書道美術館の所蔵作品)の書道史における位置づけを研究したものであった。 平安時代中期の和様の書風が確立されていく、小野道風、藤原佐理、藤原行成の三蹟の展開のなかで、これまで佐理の作品については国宝《詩懐紙》、同じく国宝《離洛帖》を中心に歴史的意義や作品研究がなされてきた。髙橋氏は、このなかで《頭弁帖》における書風を、温雅で線に厚みのある骨格とし、小野道風から摂取した表現に王羲之の書法が看取されるとした。さらに《頭弁帖》の最晩年54歳の書の特徴を明確にするため、《離洛帖》の壮年46歳の書との比較検討を進めた。たとえば「事」という文字について、《離洛帖》では速筆で右上がりのため緊張感がありシャープな印象を与え、《頭弁帖》では遅筆で右に緩やかに傾斜しているため、ゆったりと穏やかな印象を与えるとした。つまり、《頭弁帖》は晩年において奔放闊達で颯爽とした人間味溢れる書風を確立した書であり、佐理の人生を総括する書であったと位置づけた。 髙橋氏の発表は、理を詰めて、明確に進められたが、書についての発表が初めてだっただけに、聞く側に予備知識などを含めて戸惑いが多少見られた。今後の発表では専門的な用語・技法などに関して、もう少し説明を加える工夫が必要かもしれない。
研究発表③ 美への追究――岡崎義恵の「日本文芸学」をめぐって 発表および報告:皮 俊?(天津外国語大学
日本語学院)
2月18日、まだ雪が積もっている金沢(客員研究員として昨春から滞在中)から暖かい早春の広島に到着した。わくわくして2月19日に広島芸術専門学校で開催された広島芸術学会第94回例会に出席し、予定通りに「美への追究――岡崎義恵の「日本文芸学」をめぐって」という題で発表させていただいた。 岡崎義恵の提唱した「日本文芸学」は、その当時の正統の権威たる国文学と一致している訳ではなく、美学を基礎にして、日本文芸を研究しようとする学問である。そういうところに惹かれて、「日本の文芸学」ではなく、「日本文芸の学」についての勉強と研究をはじめた。岡崎義恵の名前と研究は、現代では余り知られておらず、時代遅れに聞こえるし、正直に言うと、もうまったく注目されていない領域かもしれないと懸念していた。 発表してみると、意外に皆さんがとても熱心に聞いてくださり、発表内容にも関心が集まって、美学と文学の面にわたって、質問も意見もいくつかいただき、大変勉強になった。岡崎が日本文芸に関連して研究した「哀れ」と「をかし」を西洋美学の「悲劇」と「喜劇」に当てはめられるか、また、「哀れ」を重んじながら、「をかし」をも絞りだし、それぞれ日本の美的範疇の正面、背面の対照で考えるのはどう評価すればよいかとの質問が寄せられたり、「日本文芸学」の基礎学とされた美学について、関係深いドイツ美学のことを聞かせていただいたりした。「哀れ」と「をかし」については、その姿を変えても日本の文芸の歴史を相補的に貫いていることを指摘し、後者のご指摘に対しては、ドイツ文芸学の影響についての認識不足を自覚すると共に、中国で多用される「文芸美学」については、1960年代に始まる中国の「文芸美学」の研究現状を紹介し、ドイツ由来の概念と名称は似ているが、そうとは簡単に言えないことなどを説明した。 日本文芸学を掲げた岡崎義恵が、方法としては普遍的な哲学的美学を基礎に、日本文芸を国際的な観点から研究することに努めたと理解してきたが、その場で各研究者からのいろいろな質問と感想を聞いて、岡崎義恵が、戦後のみならず現在でも日本文芸の独特性を強調する民族主義者として一面的に誤解される面があることを改めて実感した。 今後は、多様で貴重なご意見・ご指摘を踏まえて、できれば上記の誤解の解消のためにも、小論を修正し、公表したいと思う。今回の研究発表が、まことに貴重な学問的交流の機会となり、裨益されましたことを深く感謝いたします。
特別講演 私と広島/ヒロシマ 発表:広島大学名誉教授 水島裕雅 報告:広島大学名誉教授 嶋屋節子
水島氏は1972年に広島大学に着任し、定年までの34年間、比較文学と日本語教育の分野で研究を深めると共に、国内外の学生を熱心に指導された。定年後も「広島に文学館を!市民の会」の代表を続け、念願の実現に努めた。この後、染色芸術家の夫人と「笙の笛」作家の子息と共に、千葉県東金市に各自のアトリエを備えた新生活が始まるとのことだ。 氏の回想は1942年初秋に誕生した東京都平河町から始まり、1945年の早春、父方の故郷岡山の田舎に疎開し、そして8月6日の朝、ヒロシマ方面の空高く、あの「きのこ雲」を見たという。そしてこの幼児の記憶が氏と広島を結び付ける縦糸の発端であると。偶然の縁として、氏は堀辰雄を思い出す。辰雄の父は広島藩士の出自で、水島宅と同じ平河町に住み裁判所に勤務していた。辰雄は1904年、妾腹で生をうけ、堀家の嫡男となっている。 氏は、大学時代を通し、フランスの象徴派詩人(ボートレール、マラルメ、ランボーetc.)の研究から、日仏比較文学の視点で修論では堀辰雄を取り上げた。この比較文学の課題を背負って広島に着任した氏の研究課題に、やがて必然的に加わる作家が待っていた。原民喜である。その発端は、1981年7月15日から1週間、原爆資料館での平和祈念事業の際、民喜の文学資料展が開催され、その準備に加わったことだ。その時、民喜の数ある資料の中に一冊の手帳が目に止まった。それは、民喜が自宅で被爆後、延焼を逃れて外へ出た道すがら目にした惨状の記録であった。この精確なメモ帳は後の『夏の花』へと昇華した。さて、この手帳に水島氏が「衝撃を受けた」と熱く語ったとき、この出会いは氏には必然的絆だったと思えたはずだ。かくして原民喜は氏の比較文学研究の中に根付き、事実また、氏の徹底性は民喜の全作品の精読と並んで、この作家に関する資料の収集へと向かった。 氏が民喜の作品から得た画期的な着想は「青空」のモチーフである。その成果は、1995年秋、『青空』-フランス象徴詩と日本の詩人たち-と題する著作(木魂社)として世に出た。また、我らが『芸術研究』(1995年、第8号)にその[第4章 原民喜の青空]が転載されている。民喜の全作品には「青空」が89例使われており、この視点から、民喜も親しんでいたフランス象徴詩人と新たに比較検討し直した画期的な研究である。この視点での研究成果を氏は折ある毎に発表し、大きな反応を得た。1991年国際比較文学(東京)では「滅びのヴィジョン-原民喜とフランス象徴主義-」、1994年にはワルシャワの国際日本研究シンポジウムで「日本文学における青空のイメージの変遷」、ほか多数。 水島氏は[ヒロシマ]が世界に誇る原爆文学と資料を纏めて展示できる[文学館]設立に心血を注いだ。氏の発表の8割はその市民運動の時系列的説明であった。1987年、広島大学長・沖原豊氏を代表とし、50人を発起人とする要請が荒木市長に提出された。2001年1月1日を機に、水島氏を代表とする[広島に文学館を!市民の会]が結成され、1月26日付で秋葉市長宛に要望書を渡したが、10年余の折衝も「糠に釘」であったようだ。しかし、その間に文学資料は3万点余集まったが、これは中央図書館の一角で休
中らしい。
[報告者からのお願い:水島氏の文学館設立運動についてはパソコンの(水島裕雅)でぜひ検索して戴きたい。]
★例会後、千葉に転居された水島裕雅氏からお便りが届きましたので、ご紹介します。(事務局)
3月初めに千葉県東金市に移り、10日もしないうちに今回の東日本大災害に遭いました。私のいる東金は震度5強でしたが、幸い今のところ大きな被害を受けずにいます。しかし、近くの九十九里沿岸は津波にやられ、死者や床上・床下浸水や土地の液状化などの大きな被害を出しています。いまだ余震が続き、震度3や4の余震は毎日のように、時々震度5の強い余震にも揺すられます。最近も震度5の余震があり、地元のJRは止まりました。また福島原発の事故も先が見えず、東日本の人々は不安な日々を過ごしています。この先1年どころか数年この状況が続くと予想する人もいて、なかなか日常の生活にもどるのが難しいようです。 今後当分の間、東日本は沈滞するでしょう。西日本に大きな災害がなく、東日本の分以上に活躍なされることを祈ります。
また、皆さまのご健勝とご活躍を祈ります。
水島裕雅
寄稿① コンサートについて 二つの復興?「ヒロシマ・音の記憶Vol. 2 」開催に向けて? 広島大学 能登原由美
千年に一度と言われる大災害、それによって生じた放射能汚染の脅威がいまだに続く中、復興という言葉にはすっかり耳慣れてきた。けれども、その言葉を口にする重みは、被災地にいる者とそこから離れた場所にいる者によって大きな隔たりがあるにちがいない。66年前、やはり一瞬にしておびただしい生命と日常を根絶やしにされてしまった広島についても同じではなかっただろうか。今それを振り返るのもまた同じであり、半世紀以上の時間的な隔たりがあるからこそ広島の「復興」について何かを語ろうとするが、当時においてはただ「生きる」ということの積み重ねだけだったのではないかと想像する。 奇しくも、昨年より準備を進めている「ヒロシマと音楽」委員会主催のコンサート「ヒロシマ・音の記憶Vol.2?繋がり?」(チラシ参照)のテーマは「広島の復興」である。つまり、被爆直後の広島を音楽によって活気づけようとした若者たち(広島学生音楽連盟)の活動の様子に焦点を当てた。コンサートではその活動を紹介するとともに、学校の垣根を越え音楽を通じて繋がっていた当時の学生たちの姿を浮き彫りにできるよう、現在の若者たちの新たな繋がりを試みる。 被災地からの遠さ、あるいは被災時からの遠さ、そうした空間的、時間的距離がもたらす当事者と第三者の精神的距離が埋まることは、おそらく永遠にないだろう。私たちは単に想像するだけである。それを承知の上で、今回のコンサートを企画した。想像が新たな創
に繋がればと願っている。
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