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広島芸術学会会報 第122号
● 巻頭言 著作権法が詩の研究を妨げる 西原大輔(広島大学大学院准教授) 2006年から、日本の近現代詩の研究をして来ました。秋頃にはその成果を『日本の名詩』と題して出版する予定ですが、ここに至るまでの数年間、著作権の問題に随分悩まされました。著作権法というのは、著者や制作者の権利を守る良い法律だと素朴に信じていた時期もありましたが、最近はむしろ、過剰な著作権保護の弊害を痛切に感じています。小説を研究する際には、著作権の問題を意識することはほとんどありませんが、詩の研究では著作権が障害になることが多いようです。この場をお借りして、私の体験を少しご紹介させていただきたいと思います。 ある時、戦後の詩集に掲載された詩のコピーを取り寄せるために、広島大学中央図書館経由で国立国会図書館に複写の申し込みをしました。その詩は見開き2ページには収まっておらず、合計2枚コピーする必要がありました。国会図書館から帰ってきた回答は、「詩全体を複写することはできない」という、驚くべきものでした。説明によれば、詩は1篇で1件の著作物とみなされるため、詩1篇を全てコピーすることはできない、もし詩全体をコピーしたければ、著作権継承者に連絡をとり、承諾を得てから複写請求して欲しい、ただし詩の一部分なら複写可能なので、1枚だけならコピーを郵送できる、とのこと。 恐るべき杓子定規ですが、「国会」図書館である以上、法律を厳格に運用せざるを得ないということでしょう。私はやむを得ず1枚だけコピーを取り寄せ、しばらくしてから別の図書館を通じてもう1枚のコピーを手に入れました。その時にはご丁寧にも、国会図書館からの警告文が同封されていました。著作物を複数回に分けて全体を入手しようとする行為は、断じて認められないという趣旨でした。 詩集に掲載されている詩1篇すらコピーさせないというのが著作権法であるならば、この法律は、著者の権利を守るというよりも、正当な研究を妨げる悪法でしかないでしょう。これが小説だったならば、数ページ分コピーしても違法にはなりません。長い著作物の一部にすぎないとみなされるからです。 『日本の名詩』を出版するにあたっても、著作権法が実質的な障害となりました。この本は、近現代日本の名詩225篇に、注釈と鑑賞をつけるものです。ところが、詩は1篇で1著作物とされるため、没後50年を経過していない詩人の全ての作品に対し、著作権使用料を支払わねばなりません。1篇あたりの金額はわずかですが、出版社は著作権継承者の連絡先を調べ出し、使用許諾を求める文書を大量に発送し、銀行口座情報を入手して、送金やら源泉徴収やらの煩雑な経理作業をしなければなりません。名詩の鑑賞本を刊行することがいかに困難か、きっとご理解いただけると思います。 どうりで、大型書店の詩のコーナーに足を運んでも、有名な詩を集めた良いアンソロジーや、良質な詩の解説本などがほとんど並んでいないわけです。この手の書籍は権利処理が複雑なため、手間や採算性を考えると、出版が極めて難しいのでしょう。その難関をかいくぐって、2013年中に『日本の名詩』を世に問う予定です。長く読まれ続ける定番の本として、多くの読者に親しまれることを心から願っています。 ●
第102回例会報告 研究発表報告① 戦前呉市における洋画団体の変遷と創作動向―呉独立美術研究会とその周辺― 発表:向井能成(呉市役所産業部海事歴史科学館学芸課市史編さん係) 報告:吉川昌宏(蘭島閣美術館 学芸員) 今回の向井氏の発表はその題のとおり、広島県呉市における洋画団体の活動について新聞、雑誌等各種資料の精査に基づく研究内容の発表であった。研究の対象となる時期は大正初期から昭和20年までの戦前期としている。明治時代の幕開けとともに海軍の軍港都市として発展してきた呉市にとって、まさに戦前のその時期、呉の街は多いに賑わい、活況をみせていたであろう。街の隆盛と呼応し、昭和初期の呉画壇もまた活気を見せていた。その活動のなかにあって、特筆すべき集団として氏が注目されたのが「呉独立美術研究会」である。独立美術協会展への入選者、あるいは入選を目指す在呉の作家たちによって昭和11年に結成された同会はフォービズム、シュルレアリズムなどの当時の前衛表現を積極的に取り入れ特徴的な活動を行なっていた。当時の地方新聞紙、雑誌などを丹念に精査された氏の研究によって、その活動内容や関わった作家たちの輪郭が一段と明らかにされている。時代を観察するポイントとして同会を定めることで、戦前の呉の画壇に携わった様々な人物や事象が交差し、それぞれの活動の断面が輝いて見えてくる。今後のさらなる研究の進展によって、新たな作家や活動の発見につながることを期待せずにはおれない。 発表者の向井氏は現在、呉市の市史編さんに携わっておられるとのことで、その調査の細密さはまことに丁寧である。貴重な一次史料の読み込みと情報の整理は基礎研究として重要である。同じ市にある美術館の職員として、今後の自身の研究、展覧会の方向を考える上で実に興味深い研究内容の発表であったと感じた。 研究発表報告② 南薫造・永瀬義郎、疎開が残した地方への影響―「芸南文化同人会」の活動とその後 発表:古谷可由(公益財団法人ひろしま美術館 学芸員) 報告:髙村佳子(公益財団法人ウッドワン美術館 学芸員) 広島県賀茂郡安浦町内海(現 呉市安浦町)に生まれた南薫造。今年で生誕130年を迎えた。南は帝室技芸員を拝命した1944年に郷里の内海に疎開している。一方、茨城県に生まれた永瀬義郎は大正7年に東京美術学校彫刻科を卒業後、長くフランスに遊学。第2次世界大戦の開戦を機に帰国し、妻サトの郷里・安芸津町風早に疎開している。そして1946年2月、終戦から半年たらずの時期に永瀬を中心に結成されたのが「芸南文化同人会」である。 古谷氏の発表は、氏が、たけはら美術館にご在籍されておられた際におこなわれた、1997年鹿島美術財団助成特定研究を基本に紹介された。南と永瀬の疎開時代の活動とその影響という観点から、当時の史料や同会メンバーであった浜本武一氏への聞き取りを交えながら、「芸南文化同人会」の設立、同会への南の参加の経緯、同会の設立意図、活動とその後について、他に類をみないそのユニークな活動について語られた。 また今回は、同会の動向を知る上で貴重な史料である同会発行の機関誌「芸南文化」(創刊号、第2号)を向井能成氏が実際にお持ちくださるなど、活動の一端をより具体的に身近に感じることができたように思う。 戦後、空襲によって壊滅的な状況にあった広島地域において、戦前より中央画壇で活躍した2人の画家、南薫造と永瀬義郎を中心として、芸南地区から芸術を含めた文化復興の動きが起こった。古谷氏も述べられたように、この分野の研究は明らかにされていないことも多いように思われる。今後の展開に注目していきたい。 ● 展覧会評 玉樹画仙の訓戒 大井健地(広島市立大学名誉教授・美術評論) 船田玉樹(1912-91)は仙人だった。 多少おどおどもしておられたがそれは生きていたのだから仕方ない。 遺した仕事にふさわしい回顧展が信頼に足るスタッフの熱意がこめられて公の美術館できっちり催され、また品のある図録にまとまり刊行されたのもうれしい。今はこの図録『独座の宴』求龍堂2011、をもとにその生涯の謎めきを偲び、深めることに愉安を感じたい。 あの、父親の譴責との葛藤が深い境地に導く。絵を描くことしかしない人、それではまわりは迷惑だ。この言は正しい。おっしゃるとおりのその正しさを承諾して、なお改めない。他事をしないことが画道精進を鍛える構造。エカキが職業にならない以上「ろくなめしをくはざる奴」の罵倒に甘んずるほかはない。 それは抵抗する、反抗する、反骨精神を持ち続けることにほかならない。権力者・分限者に対してだけでなく、権力と財に無縁の誠実一途の(父君を例とする)正直者に対しても異を立てざるを得ぬのが、せつない。 「ああ、せつない」が基点の感情を別の媒介であらわしたのが河童図であり河童詩である。「ああ、せつない」と、迷惑をかけているまわりの人に訴えたところで自業自得と冷たく突き放されるのがおちだから、画人は河童の国へ遁走したのだ。「ララ・ララ・ルンルン・リラ・リララ」、これが河童の口ずさむ「ああ、せつない」。 エカキは絵をたくさん描かねばならない。ほんとうに描く、これが第一の「任務」。そのためにも①夢見ること②疲れぬこと、これが船田玉樹画仙の訓戒だ。①は社会変革に通じ②は生命尊重の敬虔さ。創作の業はとりわけて命懸けの危険があるが、死に自分を追いこんではならないのである。(未完) ______________________________________________ ● インフォメーション 藝術学関連学会連合 第8回シンポジウム「藝術と記憶」が、以下のとおり開催されます。 第1セッション「記憶と表象」(13時05分~)、第2セッション「記憶と創造」(15時35分~) ※ 広島芸術学会からは、関村誠氏(広島市立大学)が第1セッションに参加し、「ヒロシマの<顔>と記憶」に ついて発表されます。 ● 大会日程のお知らせと、研究発表者の募集について 今夏の大会日程が、7月13日(土)に決まりました(場所未定)。研究発表者を募集しています ので、ご希望の方は、発表タイトルを添えて、事務局まで早急にご連絡下さい。 なお、秋以降の例会での発表希望者も、引き続き募集しています。 ______________________________________________ ─会報部会からのお知らせ─ ・会報の送付に際して、会員の方々が開催される展覧会・演奏会などのチラシを同封することが可能です(同封作業の手数料として、1回1000円をお願いいたします)。ただし、会報の発行時期が限られていますので、同封ご希望の場合、詳細についてはあらかじめお問い合わせをお願いします。次号の会報は、6月中~下旬の発行を予定しています。 ・会員の関係する催し等の告知についても、会報への掲載が可能です(今後は、学会ホームページの活用も予定しています)。こちらについても、詳細は下記までお問い合わせ下さい。 (会報部会:082-225-8064、baba@eum.ac.jp)
次回第103回例会のご案内 下記のとおり第103回例会を開催いたします。お誘いあわせの上、多数ご参加ください。 美術展関連企画:漱石の文学と美術を語り、味わおう 広島県立美術館で開催されている「夏目漱石の美術世界」を、いっそう奥行き深く味わえるように、展覧会に関連する講演会を企画・準備しました。講師は、西欧美術から河本真理子氏、美術にも造詣の深い比較文学から西原大輔氏、そして比較美学から青木孝夫の三名です。
展覧会をご覧になる前でも、またご覧になった後でも、一部なりとも講演に臨席してくだされば、なお理解と感興の深まることはたしかだろうと思います。芸術と学芸の連携の妙味と言えば、手前味噌が過ぎましょうが、一般公開の講演会です。皆様、お誘いあわせの上、この機会を活用していただけましたら、幸いです。 (企画:青木孝夫) 【プログラムと講演要旨】 開会・挨拶(13時30分) 講演① 夏目漱石と西洋絵画の女性表象――髪/鏡/水 (13時30分~) 河本真理(広島大学) 夏目漱石の文学世界が西洋美術と深く関わっていることはよく知られています。漱石は元々英文学者として、1900年から1902年にかけてロンドンに留学しました。留学中は美術館や展覧会に足繁く通い、ルネサンスから世紀末美術に至る西洋美術に対する造詣を深めたのです。広島県立美術館で開催中の「夏目漱石の美術世界」展は、こうした漱石の頭の中にあった美術世界―いわば空想美術館―を、実際の作品で再構成しようとする大変興味深い試みです。 本講演では、特に『薤露行』『草枕』『三四郎』といった漱石文学のインスピレーションの源泉となった西洋絵画の女性表象に焦点を当てます。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスらラファエル前派の画家たちの展覧会出品作を中心に、それと関連する(日本人画家の)作品もご紹介します。これらの女性表象と漱石の文学世界を相互に結びつけるモティーフとして、本講演では、髪・鏡・水の三つのモティーフに着目します。 講演② 朧なる美をめぐり (14時15分~) 青木孝夫(広島大学) 漱石に垣間見える理性と感性の狭間の一端を探る。漱石は「藝術を自己の表現」と見なす芸術観の上でも、いかにも西欧近代を学ぶ知識人である。他面、彼は西欧的教養と和漢を背景に育った自己の感性の間に乖離を感じ、伝統的世界に親近感を抱いていた。所謂裸体画論争に絡む彼の姿勢を見ても、それがわかる。何事も曇りなく表現されればよいとは考えず、むしろ朧に憧憬の相手を求めることを良しとしていた。その意味で、漱石は一つ年下の横山大観と同じく朦朧派に属す。女性をはじめ彼の芸術表象には、東アジアの伝統に培われた雰囲気の尊重が明瞭である。今回の漱石の文学と美術を扱う展覧会に関連し、山水画・朦朧・憧憬・雰囲気・裸体などをキーワードに考察してみよう。 講演③ 高田敏子の詩「布良海岸」と青木繁《海の幸》 (15時~) 西原大輔(広島大学) 「夏目漱石の美術世界」展は、文学が美術と深くかかわり合いながら創作されて来たことをはっきりと示しています。この展覧会の出品作品に、青木繁(1882~1911)の《海景》があります。画家は1904(明治37)年に房総半島の布良(めら)海岸に遊び、名作《海の幸》や《海景》を描きました。一方、同じく布良を舞台とした詩に、高田敏子(1914~1989)の「布良海岸」(1961年)があります。この詩には、房総に海水浴に行った事実しか書かれていません。しかしその裏面には、青春を失ってしまった中年女性の深い哀感が流れています。平易な言葉で書かれたわかりやすい口語自由詩でありながら、各行の表現が二重の意味を帯びつつ、一語の無駄もなく構成されています。また創作の背景には、1960年代に青木繁の評価が確立しつつあったという、美術史研究上の動向がありました。高田敏子の名詩「布良海岸」を、青木繁《海の幸》との関係も視野に入れつつ精読したいと思います。 質疑応答(15時50分~16時20分)、閉会・挨拶(16時30分終了)
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