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広島芸術学会会報 第127号
● 巻頭言 公開シンポジウム「藝術の腐葉土としてのダークサイド」パネリストとして 一鍬田 徹(広島大学大学院教授) 2014年6月7日、東京国立近代美術館で開催される藝術学関連学会連合・第9回公開シンポジウムのテーマは、「藝術の腐葉土としてのダークサイド」である。趣意書には、「疲れ・倦怠・虚偽・衰退・自棄・挫折・麻痺・堕落等が日常となっている文明的生の腐葉土を滋養に換えて、アートは芽吹いている。ことは何も現代に限らないが、キラキラと健康を歌う社会の陰で、ひっそり閑と進展しているアートを、それが根ざす腐葉土との関連で検討するのが、今回のシンポジウムの趣旨」とある。 ハリウッド映画でも目にするこの“ダークサイド”という言葉。辞書をひくと「暗黒面」「社会や人生の暗黒面」とあり、この暗黒面は「物事の醜い面。暗い悲惨な面。」と説明されるi。また“腐葉土”とは「落ち葉が腐ってできた土」であり、一般的には、栄養分を蓄え、植物や森を育てるイメージを持つものである。今回のテーマは、このネガティブな“ダークサイド”とポジティブな“腐葉土”という 2つの言葉を、“藝術”という枠組みで考えようとする斬新な切り口だと言えるだろう。各発表者がこのテーマをどのように解釈し、発表するのか、パネリストとして参加させていただく一人として、期待感は強い。 かつて《人間の未来へ ダークサイドからの逃走》という展覧会が、水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催された。企画者である逢坂恵理子氏は、「本展は、戦争や憎しみの連鎖がおさまらない混沌とした状況の中では、ますます狭い視野に縛られ、悪におちいりがちな人間が、ダークサイドからいかに距離をおき、人間の尊厳や良心に対して自覚的になれるのかをテーマにしています。」iiと述べ、主に人間の姿を作品化した、アントニー・ゴームリーの彫刻やビル・ヴィオラの映像等、13人の作品を展示した。その中には、マグダレーナ・アバカノヴィッチ、スゥ・ドーホー、オノ・ヨーコ、シリン・ネシャットといったヒロシマと関わりの深い作家たちもいた。 またCNNは、〈創造性の「暗黒面」
抑鬱や狂気が天才を生み出す?〉というタイトルの記事をホームページ上に掲載し(2014年3月17日)iii、「画家ムンクの幻視やゴッホの自殺など、天才と狂気が紙一重に同居していることを示唆するエピソード」の多さを例に挙げながら、「創造性と精神疾患は統計的な相関があることが明らかになりつつある」と述べた。またその背後にある身体的メカニズムとして、処理しきれない大量の情報で収拾がつかなくなった状態が「時として、創造的なアイデアに結びつくのでは」、という興味深い分析も紹介しているiv。 このように“ダークサイド”は、距離をおく対象であったり、作品を生み出す源泉であったりと、否定的にも、肯定的にも捉えることができる言葉である。従ってシンポジウムでも多方向の展開が予想されるが、「《ヒロシマのピエタ展》―その成果と課題」というテーマで発表させていただく私自身としても、改めてその意味を整理してから臨みたいと考えている。 ― i 広辞苑第五版 ii 「異口共感の世界へ」逢坂恵理子、『人間の未来へ/ダークサイドからの逃走』展カタログ、2006年 iii http://www.cnn.co.jp/career/35044129.html?tag=rcol;editorSelect(2014年4月12日閲覧) iv 米国の認知学者スコット・バリー・カウフマン氏による分析 ● 第106回例会報告 研究発表報告① 『図本叢刊』の成立とその周辺 発表:田中 伝(海の見える杜美術館学芸員 報告:廖 偉汝(広島大学大学院総合科学研究科) 田中氏の発表は、東洋美術史家として有名な大村西崖(1868~1927)が編集、出版した『図本叢刊』を取り上げたもので、そこから当時の日中間における美術交流の状況が窺える一方、大村西崖が収集した漢籍、図版は中国古美術の保存や復興の目的にも繋がっていることが指摘された。 発表は、『図本叢刊』に収録された『蘿軒変古箋譜』等の日本で復刻して印刷した画譜が、従来の画譜より精巧な刻印を作り上げたことを明らかにした。中国で印刷された画譜も、日系工業である上海美術工芸製版所が当時の中国では珍しかった写真製版技術による図版の制作を担当したことから、近代中国での日系企業の進出、あるいは日本の技術者が中国で創業し、日本との交流や貿易関係を発展させたことが窺える。 さらに、『列仙酒牌』の題目が呉昌碩の字で飾られ、唐熊がその跋文を執筆した経緯も資料によって提示しつつ、大村西崖に中国の文人との親交があったことを解明した。往復書簡に記されていた文人画家との面会や画集の購入・収集や書画会の設立など、中国の美術界との深い関係があったことが、『図本叢刊』の出版に関与していることが説明された。大村西崖は中国古美術界にも関わりがあったことを解説しながら、大村の目的はおそらく、当時戦争によって散逸しかねなかった中国の古典、経籍、画集等を保存することであり、さらにはそれによる中華文化の復興も意図していた可能性が指摘された。しかし、大村の早死と、満州事変で日中の交流が軍事的原因により中断されたために、その目的が果たせなかったのではないかと述べた。 田中氏は丁寧に史料を踏まえて大村西崖の日中美術交流の実態を取り上げて解釈した。また『図本叢刊』として出版された画集の選択基準も議論の焦点となったが、『芥子園画伝』のように既に日本で広まっていた東洋画の技法の模本もあれば、入手困難だった貴重な画集もあるということから、大村西崖が意図的に画集を選択した一面も示されていたように思われる。『図本叢刊』の出版及びその周辺に与えた影響は、日本における中国絵画の審美観と判断基準の成立にも繋がると考えられる。現在の日中の美術交流、漢籍の復刻の基盤も築き上げたと感じられる。 研究発表報告② 明治後期諷刺漫画における病気の表象:『東京パック』と梅毒を中心に 発表:ロナルド・G・スチュワート(県立広島大学生命環境学部准教授) 報告:川添 京(広島大学大学院総合科学研究科) スチュワート氏の発表は、明治後期に人気を博した風刺漫画雑誌『東京パック』における「梅毒」表象の考察を中心に、当時の病に対する社会的な態度を探るものであった。 『東京パック』はニューヨークにおいて刊行された『Puck』誌をモデルに作られたものであるが、『東京パック』における梅毒表象は果たして西洋的な態度と同様のものなのかという問題を探るために、日本と西洋の梅毒表象の比較が行われた。 スチュワート氏によれば、西洋において梅毒は恐怖、不道徳、不潔、男性性の衰えといったイメージを連想させるものであり、そのためその表象はシリアスな問題として描かれ、ユーモラスに梅毒に言及することはなかばタブーとされていた。また梅毒が持つマイナスのイメージから否定的な他者像を作ることにも利用され、アイルランド人のステレオタイプ像として梅毒が用いられたり、小説のホラーの道具としても用いられた。 しかしながら日本においては梅毒が一般化した江戸時代から、梅毒に対する疾病観、道徳観は寛容といえるものであり、梅毒患者とその症状が「女遊び」の代名詞として川柳や小咄に登場し笑いの対象となることも多かった。明治期になり西洋文化が日本に多く流入するなかでもこのような疾病観は引き継がれ、風刺漫画にも梅毒表象は数多く表れる。今回の発表では『東京パック』や同じく明治後期の風刺雑誌である『滑稽新聞』に掲載された伊藤博文の風刺画が数多く紹介されたが、そこで伊藤博文は彼の「女好き、好色」というイメージから、梅毒の特徴的な病症である鼻の欠損とともに描かれている。 日本におけるこのような公然の、そして風刺的、ユーモラスな梅毒表象は梅毒をシリアスな問題として認識し、梅毒への直接的な言及を避ける風習にあった西洋とは大きく異なることをスチュワート氏は指摘した。西洋的価値観が怒涛のように流入した激動の明治期を「西洋化」という言葉で括ることは容易であるが、梅毒表象という観点から日本と西洋の文化的差異に光を当てた今回の発表は非常に興味深いものであった。 ● 展覧会・イベント評 2013年瀬戸内芸術祭X維新派X犬島 頼 冠樺(広島大学大学院総合科学研究科博士課程前期修了 元福武財団犬島精錬所美術館スタッフ) 昨秋の瀬戸内芸術祭期間中に犬島精錬所美術館のスタッフとして働いた。4ヶ月間の島生活の中で、芸術祭がどれほどの影響を島と住民に与えているのか垣間見ることができた。自分の研究にとってもこれはとてもいい事例だと思った。期間中に大型彫刻の作品展示のほか、沢山の公演があちこちの島で行われた。その中で私は維新派を選んだ。少し維新派、芸術祭と島のことを話したい。 【2013年 瀬戸内芸術祭X維新派】 瀬戸内芸術祭の目的は言うまでも無く、アートを利用して瀬戸内の島に住んでいる人々を幸せにし、人口が戻るように地域活性化するということだった。維新派の公演で全国の「ファン」が犬島に集まってきた。島にはもちろん作品があるが、それより犬島そのものを好きになって、公演以外のときでも訪れる方が沢山いた。維新派にとって、芸術祭は、プラスアルファーの効果も及ぼした。だが、維新派は芸術祭が始まる前からも犬島での公演を行ってきた。 【維新派X犬島】 2013年10月5日から14日まで犬島の海水浴場で、大阪からやってきた劇団「維新派」が公演を行った。2002年から岡山の唯一の有人島、現在僅か人口50人のこの島―「犬島」との絆が始まっている。2010年の時、精錬所美術館の敷地内にある「発電所」の前の、真夏の太陽を浴びた熱々の「カラミレンガ」の上、そこに舞台を組み、島と海の物語を上演した。そして2013年には島の南側、美術館の裏に位置し、小豆島や豊島、屋島と牛窓(本島)を一望できる「海水浴場」で展開した。変わっていないのは、夕暮れとともに演出が進行することと、島と海にまつわる語りと音だった。セリフを単語に解体し、リズムに乗せて、「島から島へ」「ギーゴッギーゴ」「あそこはどこ」。また時々意味がありそうな50音などを輪唱の形で最後まで役者が繰り返した。「ジャンジャン☆オペラ」という喋らない台詞、歌わない音楽、踊らない踊りの表現スタイルが一番印象的だった。劇団員自らが島で1ヵ月半滞在し、仮設舞台を海辺に建て、屋台村も設置した。お祭りの雰囲気のような空間が見られた。瀬戸内の島だけではなく、世界中の島の物語をベースにして話が展開した。最後に、主人公のこれからの発展を観客に想像させるという展開で舞台は幕を閉じた。それは犬島を含め、他の島の物語が新しく始まるのではないかと思わせるものだった。 【2013年 瀬戸内芸術祭X犬島】 犬島には2度の最盛期があった。石産業と銅精錬産業が当たり、人口が5000人ほどいて賑わう時期もあったが、産業が衰退していくうちに島の住民に残されたのはただ汚染と家族の離散だけだった。柳幸典の犬島アートプロジェクトから三分一博志の犬島精錬所美術館まで犬島に新しい希望を与えた。また芸術祭の開催により他の島とともに島の歴史を人々の目に触れさせ、さらに島の価値を守ることができる。日本国内だけではなく、海外の観客までも島の魅力に引き込まれた。 【2014年春 更なる感想と批判】 この中にもう一つ影響力がある組織が存在している。それは公益法人福武財団だ。芸術祭を開催する前から、この公益法人が地域活性化を目的としてもう動き始めていた。直島を世界的に有名な「観光地」に「変身」させて、続いて豊島、小豆島にも手を広げている。アートの力で島の文化価値を開拓した。私が住んでいた犬島もそうだった。公や財団の最終の目的は恐らく若い者を島に戻らせるという考えだが、島の「住民」が増える訳ではなく、空家や空き地を財団に売り込んで、住民は、島を離れていきたいのが現状だと見えてきた。継続運営のため、財団の方針は、段々利益獲得の方面にも発展していて、今では財団が島民と対立する場面も出てきているようだ。 買収ではなく、島民と連携し、空家や空き地を整備し、アート活動で島の維持・発展をサポートすることが、本格的に地域を活性化する一助になればよいと思う。実際、祭りの後も、さらに島のお爺さん、お婆さんが自発的に、自らの生活環境のため、島のため、本格的に活動している。これから、アートの蒔いた種が、島に変化の花を咲かせることを楽しみに期待している。 ● 演奏会評 下降する時代とともに?細川俊夫《星のない夜―四季へのレクイエム》広島初演を聴いて? 能登原由美(「ヒロシマと音楽」委員会) 2014年の年明けまもない1月末、細川俊夫の大作《星のない夜―四季へのレクイム》の広島初演を聴いた(広島交響楽団第335回定期演奏会、広島文化学園HBGホール)。世界に名を馳せる細川が2010年に完成させ、ドイツで世界初演された作品だ。 ドイツに移住してから久しい細川にとり、故郷広島への想いは格別なのだろう。原民喜の詩に寄せた《鎮魂歌》(1982)に始まり、《ヒロシマ・レクイエム》(1989)、《夜明け》(1991)、《ヒロシマ・声なき声》(2001)、そして本作と、広島をめぐる創作はすでに30年にも及んでいる。しかし、時代や社会の変化がその発想やコンセプトに強く影響を与えるのか、細川の広島をめぐる創作の軌跡には、様式の変化以上に発想の変化が著しい。 本作では、1945年2月のドレスデン大空襲とその半年後に起きた原爆投下を取り上げる。四季の循環を模した9つの楽章において2つの大量殺戮は楔を打ち込むかのごとく挿入され、自然の破壊者としての人類の愚かさが表現される。一方で、四季の循環に重ねられることで、「過ち」を繰り返す人類の救いがたさとしてさらに我々の胸に深く迫る。 演奏行為によって作品が成立する音楽においては、作品の具現に関わる奏者やそこに立ち会う人々、場の存在も大きい。その点でこの度の広島初演には大きな意義があった。21世紀に入って10年が過ぎた今、改めて「ヒロシマ」を問うこと、とりわけ2011年のあの大災厄を経た後、被爆地広島で、こうした作品が改めて演奏されること、その意味とは何か。当夜の演奏会は、単なる「記憶の継承」に収斂されない目の前の聴き手を揺さぶる音楽を提示するべく、一人の作曲家が責任をもって出した答えであり、それが見事に具現された場であったといえよう。先ごろの偽作曲家事件で一躍有名となった作品が、被爆から60年以上経てもなお、「ヒロシマ」に「絶望から希望へ」という通俗的な表層しか見いだせなかったことの顛末とは明らかに違う。 「日本は今、下降しているが、よい下降の仕方もある」と細川は言う。「ヒロシマ・声なき声」では、「死と再生」と題した第2楽章の末尾で、繰り返される上行音型のかすかな響きにより再生への望みを問うていた。本作では逆に、最終楽章「浄められた秋」で下降する音型が軸となり楽章が展開されていく。2つの作品の間にまたがる10年の歳月を思うとともに、細川の言う「よい下降」を何とか見いだしたい。そんな思いに駆られる一夜となった。 ─事務局から─ ・会員名簿の作成、配布にあたってのお願い 広島芸術学会では個人情報保護の観点から会員名簿の作成、配布を取りやめてきました。しかしながら近年、会員の中から、会員相互の連絡が取りにくくなり、結びつきが弱くなってしまっているとのご指摘がなされるようになりました。また、社会での情報保護についての意識もかなり定着してきたように見受けられます。 そこで、前の会報でもお知らせしましたとおり、今年度、改めて会員名簿を作成し、配布いたします。興味、関心を同じくする会員が情報を共有したり、連携したりすることにより、会員同士のつながりを深め、この学会の活動をより活発にしたいと考えます。ご理解下さいますよう、お願い申し上げます。 つきましては、同封の通知ハガキにより、会員皆様の情報を事務局へお届け下さいますようお願い申し上げます。 1.会員区分、2.氏名(読みがな)、3.連絡先住所(学会からの連絡が必ず届くところ)、4.電話番号(固定あるいは携帯・モバイル)、5.Eメールアドレス、6.Fax.番号、7.ご専門の分野・活動あるいはご興味、ご関心のある分野・活動、8.ご所属(勤務先や所属する会など) お届けいただいた情報のうち、項目によっては名簿への掲載の可否を選択していただくことができますが、名簿作成の趣旨に鑑み、上の2、3、4または5または6、7は名簿に掲載させていただきます。 お届けいただいた個人情報は適正に管理し、学会運営のための会員管理および上の趣旨に沿うことにのみ利用いたします。 また、今後、会報とは別に、例会案内をEメールで送らせていただくことも考えたいと思いますので、ご希望の有無をお尋ねいたします。通知ハガキの該当欄にご記入下さい。 ★ 通知ハガキご返送の際には同封の目隠しシールを貼ってお出し下さい。 (目隠しシールは貼り直しができませんのでご注意下さい。) ★ なお、通知ハガキは5月10日(土)までに投函下さいますよう、お願い申し上げます。 ・委員選挙について 今年度は広島芸術学会委員改選の年度にあたっています。6月に選挙を実施する予定ですので、ご承知おき下さい。 (事務局長:菅村 亨) ─会報部会から─ ・チラシ同封について 会報の送付に際して、会員の方々が開催される展覧会・演奏会などのチラシを同封することが可能です(同封作業の手数料として、1回1000円をお願いいたします)。会報の発行時期が限られるため、同封ご希望の場合は、あらかじめ下記までお問い合わせください。次号の会報は、7月初めの発行予定です。 (馬場有里子090-8602-6888、baba@eum.ac.jp)
大会日程のお知らせ、研究発表者の募集 ● 今夏の大会日程が、7月27日(日)に決まりました(会場:ひろしま美術館講堂)。 ● 研究発表者を募集していますので、発表をご希望の方は、発表タイトルを添えて、 事務局まで、急ぎご連絡ください。 詳細のお問い合わせは、事務局までお願いします。
下記のとおり第107回例会を開催いたします。お誘いあわせの上、多数ご参加ください。 美術展関連企画:<風景と絵画>をめぐって 日時:2014年5月11日(日)14時~17時 場所:尾道市立美術館(尾道市西士堂町17-19千光寺公園内 0848-23-2281) <例会趣旨> 尾道を見下ろす千光寺公園は美しい新緑の季節を迎え、今多くの人々がここを訪れています。園内に位置する尾道市立美術館では、リッカー・コレクションとしても知られ、質の高い膨大な所蔵品を誇る東京の平木浮世絵財団の作品による「平木コレクション 美しき日本の風景―川瀬巴水、吉田博を中心に―」展(同封の案内チラシを参照)を開催しています。 江戸時代の浮世絵の名品から、著名な近代画家の作品までを幅広く紹介する一方、近年再評価が進む、戦前期に浮世絵の伝統を蘇らせた川瀬巴水、吉田博に焦点をあてた文字どおり「美しき」展覧会です。 さまざまな立場から議論に参加していただくことを期待し、そのための時間を十分にとる予定です。 会場は絶景を楽しめる美術館のスペースです。たくさんの方の参加をお待ちしています。 ( 当日が展覧会の最終日です。展示をご覧になる方は例会開始前にご観覧ください。 ) (末永 航) 開始:14時 ● 講演① ヨーロッパの風景画・風景版画 末永 航(広島女学院大学国際教養学部教授・西洋美術史) ● 講演② 近代日本の風景版画 森山悦乃(公益財団法人平木浮世絵美財団主任学芸員・日本美術史)[予定] ● 講演③ 私の風景画について 范 叔如 FAN SHURU(アーティスト) ※ 会員、非会員を問わず、本例会への参加費は無料です。 入り口で入館の手続きをお済ませのうえ、会場にお入りください。 ※ 尾道市立美術館へのアクセスについては、同封の、展覧会チラシの裏面をご覧ください。
下記のとおり第102回例会を開催いたします。お誘いあわせの上、多数ご参加ください。 日時:2013年2月23日(土)14時30分~ 場所:呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) ※JR呉駅下車徒歩約5分 4階会議室・研修室 (呉市宝町5-20 TEL: 0823-25-3017) ● 研究発表① 戦前呉市における洋画団体の変遷と創作動向|呉独立美術研究会とその周辺| 向井能成(呉市役所産業部海事歴史科学館学芸課市史編さん係) ● 研究発表② 南薫造・永瀬義郎、疎開が残した地方への影響―「芸南文化同人会」の活動とその後― 古谷可由(公益財団法人ひろしま美術館 学芸員) <発表要旨> ①戦前呉市における洋画団体の変遷と創作動向|呉独立美術研究会とその周辺| 一般的に戦前における呉市は海軍工廠に勤める工員達や海軍軍人を中心とした街であり、広島市のようには文化の育っていない街と思われているが、昭和初期の呉画壇はかなりの活況を呈している。当時の呉市洋画壇では水彩による写実的表現が主流である中において、昭和11(1936)年から18(1943)年にかけて鎌田知治、荒井不可志、空野洲絵人(八百蔵)などを中心として油彩による先進的な表現による創作活動を展開した独立系の画家集団「呉独立美術研究会」がいたということは今ではあまり知られていない。戦前期においては広島県だけでなく他県においても、独立系の地方組織はまだ多くはみられないという点で異色の団体である。 本研究は新聞・雑誌資料をもとに、まず大正後期から昭和20年までの戦前呉市における洋画団体の変遷と山路商など広島の画家や団体との関わりについて、つぎに呉独立美術研究会の画家達の活動状況と独立美術協会会員であった清水登之、田中佐一郎の来広とその影響をあとづける。また、当時の呉市における創作活動の背景として、写生の制限など画家にとって不利な状況下にあった軍港都市呉において何故、美術の隆盛した時期があったのかということについて考察する。 ②南薫造・永瀬義郎、疎開が残した地方への影響―「芸南文化同人会」の活動とその後― 原爆を受けた広島だけでなく、再三の空襲を受けた呉を含めて、戦後の広島地域は、壊滅的な状況にあった。街がそういう状態であったのであるから、芸術を含めた文化の復興が容易ならざるものであったのは想像に難くない。しかし、地理的にみて呉の東隣にあたる芸南地区は、戦災を免れていた。また、その地に、南薫造と永瀬義郎という戦前より中央画壇で活躍した2人の画家が疎開していたことも幸運であった。この2人が中心となって、戦後間もない時期に、この地域から文化の再生への動きが起こるのであった。なかでも、永瀬を中心に結成された「芸南文化同人会」は、1946年2月、つまり終戦から半年たらずの時期の設立というその早さだけでなく、活動のユニークさは、他に類をみない。 今回の発表は、この「芸南文化同人会」を中心に、南と永瀬の疎開時代の活動とその影響を考察する。具体的には、「芸南文化同人会」発行の機関紙、および当時の新聞・雑誌記事、さらに既に他界されているが研究当初唯一の存命メンバーであった浜本武一氏からの聞き取りを交えておこなった、1997年度鹿島美術財団助成特定研究を基本に紹介するものである。すでに10年以上も前の調査研究が下敷きとなっているが、私自身を含めて、その後この類の研究は進んでいないように思われる。今回の例会での向井能成氏の発表との関連とあわせて、今後の展開を期待しつつ、あえて呉で開かれるこの例会で発
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