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                                            広島芸術学会会報 第132号

 

 

巻頭言

海外出張での「時間」

関村 誠(広島市立大学教授 

 

 毎年海外出張に出ており、昨年度は、8月にモロッコ、11月にイタリア、そして3月にはルーマニア、ベルギー、フランス、チュニジアをまわってきました。海外では、文化の違いもあり、普段と異なる時間の流れを感じます。そんな時、日本人であることを強く自覚します。これは日本を出れば誰もが感じ、それを想定して行くことも多いと思いますが、ここでは研究出張での経験を中心に述べます。

 初めて行ったルーマニアでは、ブカレストの社会科学高等研究所で講演の予定でしたが、同時期にブカレスト大学で日本に関する学会があり、そこでも発表依頼がありました。学会での私の発表時間をF教授にメールで尋ねると、発表20分と質疑応答10分という返信がすぐに来ました。短い発表でしたが、西洋では時間は正確ではないとこれまでの経験からわかったつもりで、当日は話し始めました。ところが、途中で前の席の学生が「あと10分」、「あと5分」と書かれた紙を私に向けて掲げました。なんとか少し省略しつつ発表を終えました。日本とは異なる文化の中で、西洋的な時間進行を想定していた私は、この堅実な対応に逆に面食らいました。後でわかったのは、共産主義を経たルーマニアの国柄というわけではなく、日本への留学経験があるF教授は、ブカレスト大学でも日本式のやり方を浸透させていたのでした。

 ベルギーやフランスでは様々な時間進行が遅れていましたが、毎年行く国でもあり、それは想定内でした。しかし、この出張の最後にチュニジアに行き、また時間感覚の違いを意識しました。そもそもチュニジア行きが決まったのが、日本を発つ2日前でした。友人のチュニジア人C教授からは当初学会開催のめどが立たないと言われていましたが、2日間だけ開催できるのでぜひ来てくれと直前に連絡があったのです。もう遅すぎると一度は返答したのですが結局行くことになり、発表時間とチュニス空港までの迎えについて、メールで尋ねました。返信では、空港まで迎えに行く、とありましたが、発表時間については応答なしでした。私は時間についてそれ以上尋ねませんでした。というのも、これまでの経験の他に、とりわけ「地中海時間」という言葉を思い出したからです。3年程前、南仏の大学で、友人のT教授は私の講演の開始予定の時間を過ぎても悠長に大学を案内してくれていたので、焦り始めた私がもう会場に行こうかと言うと、30分程遅れるのは当たり前で、それが「地中海時間」だと彼は言っていたのです。チュニジアに行く予定の3日前に、チュニスで博物館襲撃事件があり日本人も犠牲となったことをフランスで知りました。各所と連絡を取った後、やはり行くことにしました。パリからチュニスへの便は2時間遅れ、空港ではチェックも厳しく時間がかかりましたが、C教授が迎えに来てくれて、2時間以上待ったことも気にしていないようでした。学会では、各人30分の予定でしたが、倍の時間をかけて話した人もおり、私も時間を気にせずに発表しました。時間を忘れる彼らの真摯な議論にはとても熱いものを感じました。

 「地中海時間」にはまだまだ慣れませんが、地中海の風土と料理は身体にしっくりときます。今回の出張を終えた頃に、イタリアのシチリア島パレルモ大学での学会「地中海の哲学」に誘いがかかりました。シチリアは地中海最大の島で、パレルモはローマよりもチュニスにずっと近い位置にあります。私は予定を確認して肯定的な返事をしました。しかし、発表時間については私からは尋ねないことにしています。

 

110回例会研究発表報告

 

研究発表報告① ベアトの富士山―オリエンタリズムから読み解く明治日本

発表:石本理彩(広島大学大学院総合科学研究科博士課程)

報告:兼内伸之介(広島大学大学院総合科学研究科修士課程)

 

 石本氏の発表は、日本初期写真史において重要とされるベアトの写真に焦点を当て、同様に明治期の日本を写真に収めたユーグ・クラフトの写真と比較を行う中で、ベアトの写真に潜んでいるオリエンタリズムを明らかにしようとするものであった。

 ベアト(Felice Beato, 1832-1909)は、ベネチア生まれの英国人で、横浜写真の創始者として知られている。1863年に来日し、離日までの約20年間、横浜で外国人向けの写真販売会社や写真館を営んだ人物である。石本氏によれば、彼の写真は当時西洋で商業的に成功したものであり、ために西洋による日本認識と関わるものである。

 氏は、絵画に帝国主義時代の西洋による「東洋趣味」を認めた先行研究を紹介し、オリエンタリズム的な視覚芸術としてベアトの写真を捉えようと試みた。氏によれば、彼は富士山を背景に、当時の人々の生活を「プリミティブ」な形で撮影した。氏が指摘する所では、当時の日本の実情を「プリミティブ」に誇張したイメージが、富士山という日本を表す記号とともに、ベアトの写真では描かれている。対して、ユーグ・クラフトの写真では、彼自身が被写体として映り込むなど、ベアトによる「プリミティブ」な加工とは様相の異なるイメージが描かれている、と報告した。その後、日清戦争の勝利を経て、日本表象が「プリミティブ」なものから変化していったことを指摘した。

質疑では、「オリエンタリズム」という概念から分析した数々の対象に対して、具体的な応答が求められた。ベアトの写真に現れている「プリミティブ」な表象を他の「東洋趣味」的な作品と比較して詳述したり、「日本自身の日本表象」との比較を深めたりする中で、さらなる発展が期待される研究であった。

 

 

研究発表報告② 中世歌論における「幽玄」の研究

発表鄭子路 ( Zheng Zilu ) (広島大学大学院総合科学研究科博士課程)

報告三木 島彦(広島大学総合科学部非常勤講師)

 

 「幽玄」は、「わび」「さび」と異なり、中国から移入された漢語である。鄭氏は日中両国の文化は互いに孤立せず、東アジア漢字文化圏の中で相互に交流しながら成長してきた歴史があると指摘する。魯迅は散文に「幽玄」を用い、現代中国語の辞書にも収録される。前半は中国におけるこの語の発祥から始まり、後半は日本での受容、平安から中世にかけての歌論家や歌人によって日本独自の「幽玄論」に昇華されていった過程を検証する。

 「玄」は老荘思想、中国哲学のキーワードで、「幽」も同じ意味の言葉である。『老子』第一章(体道)に「無名は天地の始めなり」とあるが、聖書の「初めに言葉ありき、言葉は神と共にあった」という文言と対極の考え方である。光や理性ではなくて、黒く暗く幽かなものが老荘思想の「玄」であり、天地開闢以前に森羅万象に先んじて「道」が実在する。

 「幽玄の境に入る」は世界、自我の根元に帰る謂いがある。『古今集・真名序』に言う「(事、神異に関り、)興、幽玄に入る」は、「幽玄」が日本で芸術方面に使われた初見である。俊成も歌合の判詞で同様の言葉を使う。俊成の「幽玄」はまず師の基俊の影響を受け、古風な詞、神さびた表現に使われる。晩年は「艶」と「幽玄」を並べて用いる。俊成の変化は、当時の歌壇が「幽寂風」から「優艶風」へと移る歴史的変化を反映する。俊成の子の定家は、古風、自然の超俗感、寂寥感など、父の「幽玄」を受け継ぐ。一方で定家は「艶」を追求する。正徹は定家仮託の歌論書『愚秘抄』を読み、「余情妖艶」の定家の歌を自らの理想の「幽玄美」とする。そして老荘思想、神仙道家から解ける楚の懐王(襄王)が夢で巫山の神女と契る物語を「行雲」「廻雪」の譬えとして繰り返す。

入野忠芳・ヒロシマを生きた画家?レッカともえたジャガイモのために(連載第3回)

                              大井健地(広島市立大学名誉教授)

 

(4)注目の原爆絵本

 広島の画家たちが原爆絵本を作るのが、1989年4月に汐文社から刊行された「原爆絵本シリーズ」全7冊である。7冊の著者、題名は、1.四国五郎『ヒロクンとエンコウさん』、2.入野忠芳『もえたじゃがいも』、3.山下まさと『原爆の少女ちどり』、4.下村仁一『とうちゃんの涙』、5.白井史朗『ミヨちゃんの笛』、6.山本美次・吉野和子『金魚がきえた』、7.金崎是『天に焼かれる』である。

 たとえば金崎是(すなお)氏は記している。「わたしも、身内のものを7人も焼かなければなりませんでした」。著者のうち幾人かはヒバクシャなのである。

 ヒバクシャの記録と記憶の原爆絵画としては「原爆の絵」の取組みがあった。1974年夏、「市民の手で原爆の絵を残そう」とNHKテレビのローカル番組が2ヶ月間呼びかけた。957枚がNHKへ寄せられた。その結果、被爆体験記録画集として1975年7月刊のNHK編『劫火を見た―市民の手で原爆の絵を』が出版された(広島平和文化センター編『原爆の絵HIROSHIMA』童心社1977年6月刊、は再編集本)。

 その「原爆の絵」と違ってこの「原爆絵本シリーズ」は、ひとつには画家の作家的技量と、ふたつめには絵本としての計画的な構成力などが要請されよう。7冊の著者たちの個別の取組みとその努力に敬意を持つ。改めて「原爆絵本シリーズ」の意義と内容が注目されてよいと思う。

 さて以下『もえたじゃがいも』の約40ページの各画面を順に検討する。原本にノンブルがないので絵に附された文(入野執筆)の冒頭句を画の題とする。

1「もう なん十年も前」 明るい彩色地に芋2個が寄りそう。

2「じゃがいもを手にとって」 植物図鑑の挿図のように葉・花・根・芋の全体をのびやかに開示し、そこに赤い天道虫が一匹いる。緑の葉がしわっぽくも艶っぽい。

3「あの朝 ケンが食べたのは」 食料難の時代、鍋に残った芋に主人公の少年ケンは未練がいっぱい。ケンと仏頭のような芋との哲学的見つめあい。1-3の図でまず、芋の観察から始めて次の4-6の3図は抽象図形で原爆のその瞬間を表現する。

4「その時」 「太陽が落ちてきたような」「すごい光」、「なにもかもが まっ白に光って」。その光景を白地に電撃的直線で表す。右に、外周を黄と黄土の2色で囲む「ピカーッ」の文字。左に赤い炎。

原子爆弾の光をどう描くか、どう描けるというか。あまねく8月6日8時15分のその瞬間は絵画で漫画で映画でどのように描かれてきたか。このことについては別の論が必要だが、入野忠芳の本図は独創的な“解”ともいえよう。

5「光は」 紫色の、とぐろを巻く気体。本図でデカルコマニー技法初出(以降、次の6、111220図に用いる)。偶然の形態、絵肌を利用した、この転写法はドミンゲスやエルンストなどパリのシュルレアリストが1935年頃用いはじめ日本では瀧口修造が愛用した。だがなぜシュルレアリストがこの技法に愛着し多用したか。人為を越えてミクロコスモス界に通交でき(ると思え)たからだろう。入野さんも広くはシュルレアリストの一族であったと思い知ってよい。

6「ケンは ふきとばされ」 こげ茶の蕨型巻雲群。ちぎれた電信柱、根ごと吹き飛ぶ樹木。主人公ケンは「気を失いました」。さてしかし、“気を失う”ことをどう描くか。目を閉じ気を失った少年が横たわる具象の説明図でなく“気を失わせる衝撃的災禍”をどう表現するか。

7「気がついた時」 つぶれた家屋の具象描写。“気がつく”とは具象の描写ができるということなのだ。ケンの「足が かってに走りだします」。以下10図まで墨彩具象。

8「いくら走っても」 走る「シロ」という名の黒ウサギ。白ウサギが「今は黒こげになって 走っている」のだ。

9「シロが生まれた時は すごかった」 何がすごかったか。文章は恐しいことを告げている。ケンが出産をのぞいたので「母ウサギは腹を立てて/生まれたばかりの 赤ちゃんウサギを 食べてしまった」。生き残りはシロだけ。平然たる母ウサギ。墨の滲みのリズム。

10「はしってはしって」 「ゆうれいの形になった人たちが/列になって」歩く。墨の滲みによる異様な黒雲が空に広がる。

11「山には」 がらりと画法が変わって画面全部がデカルコマニーのコラージュ(貼りあわせ)(次の12図も)。本書中の代表作の力作としたい。左から中央へ、べっとりと粘っこい朱色の盛上げの熱風ないし熱雲。下部と右に、青ざめた山中の密林と後ろ姿の罹災者列。つまり赤系の天空と緑系の地上の対比。前者は油彩風、後者は水彩風の質感。

 本図の罹災者群像は「ゆうれいの形」のようには手を前に出してない。油彩《浮遊》1970、にも複数登場のこの姿はベックリン《死の島》1880年バーゼル美術館蔵、に淵源するものではないだろうか(「広島」と音の通じる《死の島》の名は福永武彦の小説タイトルでもある)。

 「山」は入野さん住居地近辺の牛田山と思われる。多数のヒバクシャが逃げてきた土地であり町が海辺まで燃えているのを眺めうる丘陵地でもあるから。「朝のはずなのに/夜のように空が暗」い図。

12「ケンは 大きくなってから」 前図同様の技法、彩色。本図は《浮遊》1970の赤い肉くらげ(レバーおばけ、とも言いたい)である。「ユラユラ ユラユラと おそってくる夢」にケンはたびたびうなされる(それは入野さんの実体験のはず)。画面はシンプルで、北極洋上を飛翔する北海道形の「もえるような まっ赤なもの」の多分ことさらに抑制したクールな図。こちらの感性、想像力を挑発する。

13「「あれから どこへ」 ケンの母への思慕の図としての写実的な母の顔の素描。だがもう一工夫の要があると思う。

14「そのころ ケンのお母さんは」 倒れて重なる太い梁と、その下の女性の足と炎。

15「赤ちゃんは」 浄らかな抒情的墨彩画面。あの日のこととは思えぬおだやかさ。「ケンちゃんの妹が死んどってじゃわ」。近所の人が寝かせてくれた草の上の幼児横臥図。最少限の彩色。「死んどってじゃわ」は井伏鱒二ばりで不謹慎ながらおかしみもある非日常。

16「町の火」 火災で黒焦げになった芋への少年の悔しさ。「ああ/いもがこげる」(青字)

17「ああ/いもがもえる/いもがもえる」 赤黒く燃える芋。文字は朱字。16のイモコゲと対になるイモモエである。

18「キセキ的」 連らなった芋に家族を擬した脱力的へたうまふうの図。文章は家族全員無事だったことを伝え「生きているだけで/幸せというものでした」とまとめる。

19「でも あの日から」 芋を見るとあの日が思い出されノドを通らない。芋の中に、廃墟をさまよう「ゆうれいの形」の、火傷の痛みで両手を前に出した姿勢のヒバクシャの人々の行列。芋の皮にはたくさんの眼の如きものがこちらを見つめている。

20「そうして」 毎年の8月6日、ケンの家ではじゃがいもしか食べない「やせがまんの日」だとの文章。前図までの墨絵に変わって無彩のデカルコマニー断ち落とし。とうとうたる時の流れを想起させる雲海ふうでも雪渓ふうでもある。万物の生々流転であろうか。であるより人類史的罪悪である核の命運に思いを馳せたい。

 黒い白兎、まっ赤なものの悪夢をはじめ多要素の現実と超現実が出没し、食べられなかった芋への少年の執念(イモコゲ、イモモエ)が軸となりその視点が人々が焦げ人々が燃えた悲惨へと連なる。入野忠芳さんの「原爆絵本」は注目すべき上質な原爆美術遺産なのである。

 

 

*          *          *

 

 

● エッセイ

平山郁夫先生と隣り合って

                                袁 葉(広島大学ほか、講師)

(一)

「あっ、雪だ」と誰かの声。

「平山郁夫美術館」で雄大な風景画を鑑賞したあと、車に揺られてうとうとしていた私は目を開けた。

「初雪かしら」と、車内に再び会話が戻る。昨年12月、広島・呉・今治の映画サークルの「合同忘年会」に参加するため、広島を出発した車は、生口島(瀬戸田町)を走っている。

「実は私、平山郁夫先生とここ瀬戸田でお会いしたことがあります」と切り出すと、みんなの顔が磁石に吸い寄せられるようにこっちを向いた。バックミラーに映る、ドライバーFさんも目を丸くしている。

「聴きたーい」というリクエストに、私は再び90年代の旅路を辿った・・・。

(二)

瀬戸田を訪れたのは、早春の陽射しにふんわりと包まれた、19993月20の土曜日だった。

旅館の名ははっきりと覚えていないが、玄関を入るとすぐ右側にフロントがある。名前を伝えると、「どうぞ、こちらです」と案内係について二階に上がり、大広間の前にやってきた。開け放った障子の向こうに、紺やグレーのスーツ姿の人々が凹の字型に座っている。端っこにそっと腰を下ろすや、「袁葉さん、どうぞ前の方へ」と、隣の見知らぬ方に声かけられた。

なんで私の名前を? と不思議に思いつつ、上座の方に目をやると、チェックのジャケット姿の方が座っておられる。新聞やテレビで目にしたことのある、平山郁夫先生その人だ。瀬戸田は、先生の故郷でもある。

「ホンモノだ」と心の中で叫んだ。たしかに先生の隣の席が一つ空いているが、とても私ごときが・・・。「どうぞ」と、あちこちから勧められ、その声に押されて腰を上げた。

改めて見渡すと、出席者39の中で、女性は私だけだと分かった。「紅一点」ならでは、と言うべきだろうか。

 その年の5月1日に、尾道と今治間の瀬戸内の島嶼を橋でつないだ「しまなみ海道」が全通する。その記念シンポジウム「はっしん海道物語―交・楽・学へのいざない」が、明日、ここのベル・カントホールで開催されるのだ。第一部は平山先生の特別講演、第二部はパネルディスカッション。私はそのパネリストを務めることになっている。主催者である中国新聞社、愛媛新聞社と関係者がいま一堂に会したところだ。

(三)

 宴会が始まってしばらくすると、次から次へと参加者が平山先生に挨拶に上がってくる。それが一段落したあと、私も名刺をお渡しし、先生がそれに目を落とされている時に「中国人です」と付け加えた。

「ああ、あなたですか。中国のどこから来たの」

「北京です」そして、次のように申し上げた。

 北京にある「中国美術館」に行くのが、里帰りの際の楽しみの一つだ。数年前からそのメインロビーに、「本館の内装は、日本の著名な画家平山郁夫先生の寄付によりリフォームした」という内容の中国語のプレートが掲げられている。  

そして、「一中国人として、心よりお礼を申し上げます」と言うと、先生は微笑みながら

「私にとって、当たり前のことをしただけです。中国文化が好きだから」

そして、数年前から毎年、中・高校生を率いて南京の城壁の修復に携わっているというお話を伺った。

「まずは、持ち去られたレンガの回収から。それは南京市政府が主導してやってくれています。これが大変です。すでにそれで家を建ててしまったり、豚小屋を作ったのもありました」

「えーっ、自分のものだと言い張ってしまったらどうしましょう」

「大丈夫です。明朝の官窯で作ったものですから,裏に番号が彫ってあるんです」

「そうなんですか。知りませんでした」

「これまで、すでに200万個ほど集まりました」

「スゴイ!」

「我々は現地の中・高生たちと一緒になって、レンガを運んで水洗いしています」

「ありがとうございます。しかし、そんなことをなさって、日本で右寄りの人たちから何か言われませんか」

「もちろん、脅迫状も来るし、脅迫電話も来ましたよ」先生はメガネのフレームを少し持ち上げて、おっしゃった。

「ハア、先生に?」

「家にまで押しかけてきた人もいるよ」

「・・・・・・」

 先生はやや遠くを眺めるような眼差しで、穏やかに話を続けられた。

 ある日、かつて軍人だった人が怒鳴り込んできた。

「城壁を壊した壊したと言うが、たいした量じゃなかったのに、なぜそこまでするんか!」と。

 彼を応接間に通し、お茶を出して話した。

「量が問題なのではない。壊したことは事実でしょう。殺した人の数も問題じゃない。殺したことは事実なのだ。数や量にこだわっていたら、いつまで経っても双方の心の傷を癒やすことはできない・・・」

 帰り際に彼は、「私とあなたの考え方は違う。だけど、あなたのやっていることはわかった」と言った。そして、「がんばってください!」と付け加えた。

「えーっ、意外な展開ですね」

 もう一人はやはり元軍人。話し合いのあと、「今度行かれる時には、自分も連れて行ってください」と言った。

 思わず吹き出した私。しかし、そのドラマチックなオチになるまで、平山先生はどれほど腹を割って話をなさったことだろう。

 ご馳走を目の前にしながらも、先生はあまりお箸を運ばれなかった。そしてこう続けられた。

 もう一人は軍人ではなかったが、後日また現われた。風呂敷包みを下げて。

ドキッ。「な、なにを入れているのでしょう」

「城壁の修復に寄付する」と言う。

名前を尋ねると、

「これは心の問題です。名前なんかどうでもいいことです」と。

「かっこいいですね! 結局は?」

「教えてくれなかった」

ジーンときた。先生の慈悲深い心が、人をそこまで感化させられたことに。いつの間にか、周囲もシーンとなって、先生の話にみんな耳を傾けているのであった。               平山先生と袁葉(993月)

(四)

 平山先生というと、シルクロードを描いた日本画を通して、中国との華やかな文化交流をイメージしていた私。まさか、その友好の舞台裏で、命をかけて支えていらっしゃったとは、思いも寄らなかった。

平山先生は、1992年から2008年にこの世を去られるまで、「日本中国友好協会」の会長を務められた。シルクロードとのゆかりで、中国の文化遺産の保護に取り組まれたのだとばかり思っていた。しかし、それだけではないと、先ほど「平山郁夫美術館」の展示説明を見て知ったのである。

「平山は、戦場で傷ついた人を、敵味方なく救う赤十字の理念に倣い、文化財にも同様な保護救済を行う運動を1980年代から提唱し実践した。中国、アフガニスタン、カンボジアをはじめ、世界各国で保護活動を実施していた。

戦争などで傷ついた国の文化財を破壊や略奪から守り、保存修復することは、その国の人々の誇りを回復させ、さらに平和をもたらすという信念を持っていました。」

 ・・・・・・

 あの宴席での会話から、まる16年の月日が経ち、再び早春の月が巡ってきた。だが、今の世界情勢はというと、自称「イスラム国」によるイラクのメソポタミア文化遺産の破壊や略奪が報じられている。時事通信によると、ユネスコは紛争中のシリアの6か所の世界遺産全てを「危機遺産」に登録している・・・。天国の平山先生は、どれほど胸を痛めておられるだろう。

 さて、南京の城壁はユネスコ世界遺産への登録を申請中である。いつかそれが実現する日が来たならば、中国人は平山先生のことを偲び、あの日本と中国の学生たちは、先生と共に過ごした青春の日々を、誇らしく思い出すことだろう。

 

 

            *          *          *

 

 

─事務局から─

総会・大会のお知らせ

今年の総会・大会は平成2781日(土)に広島県立美術館講堂で開催します。例年、7月中の開催ですが、今年は催事の都合で8月になりました。

詳細は次号会報でお知らせいたしますが、皆様にはご予定くださいますよう、お願い申し上げます。

                                  (事務局長・菅村 亨)

 

 

─会報部会から─

 

・チラシ同封について

会報の送付に際して、会員の方々が開催される展覧会・演奏会などのチラシを同封することが可能です(同封作業の手数料として、1回1000円をお願いいたします)。ただし、会報の発行時期が限られるため、同封ご希望の場合は、あらかじめ下記までお問い合わせください。次号の会報は、7月上旬の発行を予定しています。

・催し等の告知について

会員の関係する催し等の告知についても、会報への掲載が可能です。こちらについても詳細は下記までお問い合わせください。

                                                            (馬場有里子090-8602-6888baba@eum.ac.jp

 

― 次回第111回例会のご案内 ―

下記のとおり第111回例会を開催いたします。お誘いあわせの上、多数ご参加ください。

高原の美術館と愛媛のニューウェーヴ探訪

郷土料理の昼食後、学芸員、地元の方のご案内で、久万高原町立久万美術館、砥部焼 工藤省治「春秋窯」伊丹十三記念館エヒメイズムを専用バスで見学します。

久万高原町立久万美術館は、地元の林業家・政治家として活躍した井部栄治氏収集のきわめて質の高い絵画・陶器などのコレクションの寄贈を受け、平成元年3 に開館した木造建築の美術館です。『気まぐれ美術館』で有名な現代画廊の洲之内徹氏が収集に協力していたことでも知られています。山里の小さな美術館として著名ですが、なかなか訪れる機会がなかった方も多いと思います。現在「木の薫り-風景画を中心に」と題した所蔵品展が開催中です。

 

伊丹十三記念館は『芸術新潮』などでお馴染みの建築家中村好文氏の建築も見所ですが、父の伊丹万作を含めて、俳優・監督・著作家としてユニークな活動で知られる伊丹の多面性をそのまま実感できる新しい展示が印象的です。

 

今治タオルをはじめとして、近年愛媛県ではデザイン・ワークを活用した地元ブランドの発信が活発につづけられ、全国的にも注目を集めています。伝統ある焼き物の大産地砥部で新しい活動をつづける春秋窯、新しい動きの中心的存在であるデザイン事務所エイトワンの仕事を見ることができるアンテナショップ「エヒメイズム」も見学します。

日程:2015517日(日) 

時間:集合11:00 松山観光港 ― 解散17:30 同所 

参加費:9,000円(専用バス料金+昼食代+保険料)

参加人数によって若干の変動が考えられますのでご承知ください。

松山までの交通費、博物館入館料は含みません(下記、備考欄を参照)。

参加申込:5月12日(火)までに、末永suenaga@gaines.hju.ac.jp または

ファックス0848-37-0083までお申し込みください。

(先着順に受付、集合場所などの詳細をお知らせします。ただしバスの収容人数に達した場合は締め切ります。)

 

―備考―

広島宇品~松山観光港(船便:瀬戸内海汽船と石崎汽船の共同運行)

【往路】8:15 広島港宇品旅客ターミナル発(フェリー)→(呉港9:00)→ 10:55松山観光港

    9:30 広島港宇品旅客ターミナル発(高速ジェット・フォイル船)→(呉港9:53)→ 10:47

【復路】18:00 松山観光港発(高速ジェット・フォイル船)→(呉港18:55)→ 19:17広島港

    18:05 松山観光港発(フェリー) (呉港20:00)→ 20:45

【料金】広島~松山:フェリー[往復6,480円]、高速ジェット・フォイル船[往復13,490円]

(広島宇品の切符売り場は、ターミナルビルの東側の建物です)

特に予約は必要ないと思われますが、各自でご購入ください。

往復割引、片道割引、学生・シニア割引有り。往復で高速+フェリーの組み合わせ可能。

JR(瀬戸大橋経由)、バス(しまなみ街道経由)などで松山まで行かれる方があれば、

松山駅などで待ち合わせすることもできますので、お知らせください。

博物館入館料:久万500円、伊丹十三800円。学生・シニア料金有り(証明書持参のこと)。