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広島芸術学会会報 第133号
● 広島芸術学会第29回総会・大会 案内
日時:2015年8月1日(土)9時30分~16時30分 場所:広島県立美術館 地階講堂(広島市中区上幟町2-22)
《 総会 》 9時30分~10時00分
《 大会 》 10時10分~16時30分
◆ 研究発表 ① ノスタルジア(Nostalgia)論―「生の記憶」と「時間の不可逆性」を 10時10分~10時50分 基軸として 沼田有史(広島大学大学院総合科学研究科博士課程) ②「めづらし」さと「稽古」―中世和歌における表現理念と持続原理 11時00分~11時40分 土田耕督(日本学術振興会・国際日本文化研究センター) ③ 川端康成における西行の美学 11時50分~12時30分 グェン ルン ハイ コイ(ホーチミン市師範大学) ― 昼休憩 ― 12時30分~13時10分
④ 積極的平和と芸術―「ゼロ平和」から見る芸術の創造的価値 13時10分~13時50分 田中 勝(東北芸術工科大学・文明哲学研究所) ― 休憩 ― 13時50分~14時30分
◆ シンポジウム 14時30分~16時30分 テーマ:戦争画と「原爆の図」をめぐって―その政治性と芸術性の問題 (共催:広島県立美術館) 登壇者:平瀬礼太(美術史家) 岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員) 西原大輔(当会会員、広島大学大学院教授) 大井健地(当会会員、広島市立大学名誉教授) 司会:谷藤史彦(当会会員、ふくやま美術館学芸課長) ◆ 懇親会 大会終了後、会場の近くで懇親会を予定しています。 ●「戦争と平和」展への参加に関連して 青木孝夫(広島芸術学会会長、広島大学大学院教授) 28年前、「市民に開かれた学会」をモットーに設立された広島芸術学会は、正式名称の一部に広島を冠しています。広島が発足の地にして事務局も常設しています。しかし、設立趣意書に「地域の閉鎖性を脱」すと謳うように、学問活動は、特定の地の歴史や文化や人間関係の拘束を離れ、その意味で、偏った知から脱却すべきです。他方、我々は、広島の地に根ざすことを大事にしてきました。広島の地のアイデンティティには原爆が関わり、その歴史には正負が伴います。こうして片仮名のヒロシマは、戦前から戦後へと転換し、現代に至る日本も象徴し、人類の歴史にも深く関わります。 本学会は、広島の歴史や文化を背負い、その社会と関わりながら、芸術の研究と創造を展開し実践してきました。ヒロシマと関わりのない創作や学問を展開する作家や研究者が多数を占めていても、なお広島に生まれ或いは住まうことの意味を、普段から生の根底で問うています。戦後70年は、一つの区切りの数字です。これを契機に、あらためて広島に生を享けた学会として、芸術の観点から「戦争と平和」を問い続けることを課題として引き受けます。 この度、広島県立美術館・長崎県立美術館を軸とする「広島・長崎県美術館平和発信事業実行委員会」に参画し、2015年の今夏、次の二つの催しを実施いたします。 8月1日 シンポジウム 戦争画と「原爆の図」をめぐって─その政治性と芸術性の問題 8月10日 キッズゲルニカ・ワークショップ 実現に際しては、多くの方々にご協力いただきました。深く感謝いたします。この企画が、芸術を通じ「戦争と平和」を考え、未来を拓く息吹を感じる機会になればと希望いたします。
● 大会研究発表要旨 ① ノスタルジア(Nostalgia)論―「生の記憶」と「時間の不可逆性」を基軸として 沼田有史(広島大学大学院総合科学研究科博士課程) 人はなぜ故郷を思い出し、ノスタルジアにとらわれるのか。こうしたノスタルジアは通常、昔を懐かしんで感傷に浸り、これを美化し、現実の問題から顔を背けるネガティブなイメージとしてとらえられがちであるが、はたしてそうした面だけであろうか。 本発表では、ノスタルジアが守られた至福の時代への回帰願望とは異なる、無意識のうちに人間に内在する「生の記憶」に関与することから論を進める。さらに人間が「いま・ここ」をとらえられない現実を突きつけるものとして機能することに言及する。その基底には人間が絶対に逃れることのできない「時間の不可逆性」の問題が沈静しており、本発表は人間の有限性へと収斂していくこととなる。 一人の人間が故郷を想起することから生まれるノスタルジアは、時代や場所に関わらず人間が人間であるための記憶を呼び起こす契機として、いつも我々の傍に揺曳している。ノスタルジアは人間の根源を顧みることにより人間性をとりもどす契機となり、過去を覗き込みながら攫むことのできない「いま・ここ」にしがみつくことを意識させる感性であると結論づける。そこから見えてくるのは、人間が自ら築きあげてきた現代文明に対するアンチテーゼとして、ノスタルジアが現在とは違った新たな別の世界が存在することを暗示しているということである。
② 「めづらし」さと「稽古」―中世和歌における表現理念と持続原理 土田耕督(日本学術振興会・国際日本文化研究センター) 『万葉集』が編纂されたとされる8世紀後半から、最後の勅撰和歌集である『新続古今和歌集』が完成した15世紀半ばまで、公的なアンソロジーにかぎっても、中世の終焉を待たずして既に約700年におよぶ年月を経ている。もとよりその背景には、公私にわたる歌会・歌合や、個々の歌人たちの和歌コレクション編集など、総体としての広大な和歌世界の歴史が同時に進行していた。中世を越えて近世に至っても、和歌は命脈を保ち続けたが、そのいわば持続原理は、各時代における〈過去〉との関係性に見出される。 特に12世紀以降、過去に詠まれた歌にある詞を、意図的/非意図的に自らの詠歌に取りこもうとする表現意識が目立ちはじめ、やがてそれが普遍性を獲得する。つまり中世の和歌は、過去に詠まれた歌の蓄積を再利用することによって駆動している。ここにおいて、過去の歌を常に再利用可能なものにするための「稽古」が不可欠となる。「稽古」の重要性を説いた藤原定家は、和歌の表現理念について「情は新しきを以て先となし、詞は旧きを以て用ゆべし」(『詠歌大概』)と述べている。古歌の詞の摂取によって目指される「新し」さは、過去の到達点との位相差によって生じる「めづらし」という理念へと昇華される。「稽古」とは、その位相差を感得するための前提を築くものに他ならない。表現理念と持続原理とのこのような循環性こそが、不断に〈新しい〉歌を生み出すシステムであった。
③ 川端康成における西行の美学 グェン ルン ハイ コイ(ホーチミン市師範大学) 本発表は、川端康成の西行美学の受容について、彼のノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」を軸に論じる。川端は「美しい日本の私」で、東洋的・日本的精神について論じ、その東洋的な文脈、とりわけ仏教との関連で西行の和 歌論を紹介している。西行の美学を理解する際、彼が明恵に説いたとされる和歌論(喜海『明恵上人伝記』)が重要である。西行は、仏教の基礎的原理である言 説を超えた「不立文字」の精神に立脚するが、彼の和歌論は、どのように言語に基づかずに和歌を作成できるとするのか。この逆説に直面する西行の和歌観は、「作品」「手法」「心」「現象的世界」「本性的世界」を融合する一元的な精神に基づいている。本発表では、川端の「美しい日本の私」を取り上げ、その講演の 文脈に登用する西行の美学を解明しながら、それを、川端がどのように受容しているのかを、検討する。
④ 積極的平和と芸術―「ゼロ平和」から見る芸術の創造的価値 田中 勝(東北芸術工科大学・文明哲学研究所=芸術平和学) 2013年12月17日に、日本政府は史上初となる「国家安全保障戦略」を閣議決定し、「国際協調主義に基づく積極的平和主義」との基本理念を打ち出した(内閣官房[2013])。もともとノルウェー出身の平和学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)が説いた「積極的平和」の意味は、「暴力の不在というだけではなく、その上に新たな暴力化を阻止する何か積極的なものが形成された状態を指す」と、平和学者の奥本京子は述べている(奥本[2013]25頁)。政府では「暴力の不在」という前提条件が崩され、真逆の意味で存在し、使用されている。本来、共有すべき「平和」が、なぜこのようなことになるのだろうか。 ユネスコ憲章にある「平和のとりで」との言葉は単に平和のスローガンではない(ユネスコ[1945])。ユネスコ自身、この言葉を信じ、反人種主義および反差別の闘いにおいて、アパルトヘイト(人種隔離政策)問題の前線に立ってきた言葉である。そして、この言葉が、ガルトゥングのあらわした「直接的暴力」と「構造的暴力」を正当化する「文化的暴力」に対する応答であると捉えるならば、「人の心の中に平和のとりでを築く」役割を、文化の表象のひとつである芸術が果たせるのではないだろうか。芸術は2つのソウゾウリョク(想像力と創造力)の表現である。また、「平和」も「芸術」も、他者との関係性のなかで生まれる。ガルトゥングは、平和創造における芸術の役割について、芸術における対話(出会い)と共感性を述べている(ガルトゥング[2010]68~69頁)。「積極的平和」における「暴力の不在」、そして、「その上に新たな暴力化を阻止する積極的なもの」として、芸術の存在を明らかにしてみたい。 <引用文献> 奥本京子[2013],『平和ワークにおける芸術アプローチの可能性:ヨハン・ガルトゥングによる朗読劇Ho'o Pono Pono: Pax Pacificaからの考察』法律文化社。 内閣官房[2013],『国家安全保障戦略について』http://www.cas.go.jp/jp/siryou/131217anzenhoshou/nss-j.pdf(2015年4月28日アクセス)。 文部科学省[1945],「国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)/The Constitution of UNESCO」http://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm(2015年4月28日アクセス)。 ヨハン・ガルトゥング[2010],「対談:希望のヒロシマはいかにして可能か」平岡敬+ヨハン・ガルトゥング対談,藤田明史起稿『トランセンド研究 第8巻第2号』トランセンド研究会。
● シンポジウム:テーマ「戦争画と『原爆の図』をめぐって―その政治性と芸術性の問題」 <趣旨> 戦後・被爆70周年を迎える広島の地で、芸術における戦争や被爆の問題、そして平和の問題をあらためて考えてみたい。 第2次大戦中に従軍画家たちによって描かれた戦争記録画は、戦後アメリカ軍により接収され、その後“無期限貸与”というかたちで東京国立近代美術館に保管されている。これらはいまだに纏まった形で公開されることはなく、その芸術としての評価も確認できないままにいる。画家の戦争協力に対する批判の強さゆえに、芸術作品として虚心坦懐に向き合えないままにいるが、近年その芸術性を再評価する動きもある。 一方、戦後の広島で被爆した画家たちが、原爆による惨状を記録するために多くの被爆絵画を描いてきている。その象徴的な存在として丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」は大きな意味をもってきた。この作品が、まさにこの夏にアメリカのワシントンでも展示される。原爆投下の命令を下した街で、「原爆の図」は何を語るのであろうか。 このように戦争画と「原爆の図」における政治性と芸術性の問題は、未だに古くて新しい問題のままである。戦後・被爆70周年を迎える広島の地で、あらためてこれらを考え、議論することは、新たな視座を探るうえでも意義あることであろう。
登壇者 平瀬礼太(美術史家) 岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員) 西原大輔(当会会員、広島大学大学院教授) 大井健地(当会会員、広島市立大学名誉教授) 司会 谷藤史彦(当会会員、ふくやま美術館学芸課長)
発表要旨 ・アジア・太平洋戦争中の美術活動は時代、社会の激変に伴い独特の様相を見せた。そこで生れた作品はどのように生まれ、人々はそれらに対してどのように振舞ったのか?戦後の動向も含めて確認する。 (平瀬礼太) ・「日本画」と「洋画」の枠を逸脱した芸術的実験であり、原爆の惨禍を伝える「反戦平和の象徴」とも言われる丸木夫妻の《原爆の図》。芸術と政治のみならず、さまざまな“境界”を揺さぶる絵画の在りようを考える。 (岡村幸宣) ・戦争画と反戦画は、正反対なものなのだろうか。藤田嗣治《サイパン島同胞臣節を完うす》(1945年)の悲惨な画面は、題名さえ変更すれば、反戦平和の絵になりうるように見える。政治は芸術の外にあるのか、内にあるのか? (西原大輔) ・戦後生まれの僕の願いは、ずっと「戦後」であること、ずっと徴兵制のないこと。夢や希望や自主性を持っては、良い兵士になれない――とは表現者と真逆。よい表現が存立しうるために、人を元気に、活き活き生かすために。 (大井健地)
● 広島芸術学会 キッズゲルニカ・ワークショップ(共催:広島県立美術館) 日時 2015年8月10日(月) 10:00~16:00 会場 広島県立美術館 地階講堂 趣旨 被爆70周年を迎える広島での「戦争と平和」展の関連催事として開催する。 広島の子ども達が、戦争そして被爆を改めて考え、平和を希求する想いを託して大きな絵画(《ゲルニカ》とほぼ同寸法の3.3×7.3m)を制作し、展覧会を訪れる多くの人々に見てもらう。 ピカソは、1937年、故郷スペインの内戦でゲルニカ村が無差別爆撃されたことに衝撃を受けて《ゲルニカ》を制作し、パリ万博で展示した。こうしたピカソの戦争や平和への想いを考え、参加した一人一人の様々な想いが形や色で表現できること、美術が人々にメッセージを伝える力を持つこと、これらのことを子どもたちに改めて感じてもらい、体験してもらう機会を提供する。 参加者には共同制作を通じて相互理解と尊重、協働が創造に繋がることを体感してもらう。
講師 加藤宇章(広島芸術学会会員、アトリエぱお主宰) 参加方法 対 象 中学生以下 参 加 費 無料 定 員 35人 応募方法 電話予約(082-221-6246 広島県立美術館)
作品展示 広島県立美術館 地階講堂前 8月12日(火)~8月22日(土) キッズ・ゲルニカ制作補助ボランティアを募集 制作や指導の経験豊かな芸術学会会員の皆様のご協力で、制作をスムースに進めるとともに、作品の質を高め、当日集まるこの事業に関心を持つ美術好きのこども達に、滅多にないアーチストとの触れ合いの機会を提供したいと願います。全行程でなくとも結構です。時間のある限りのご参加をお願いします。 ★ お問合せ・連絡は、加藤宇章(080-3055-3325 katononote@gmail.com)まで。
●「広島・長崎 被爆70周年 戦争と平和展」開催に寄せて 河本真理(日本女子大学人間社会学部教授) あの夏から70年が経とうとしている――今夏、広島県立美術館と長崎県美術館が協働して、「広島・長崎 被爆70周年 戦争と平和展」を開催する運びとなった。両館のコレクションと国内の美術館・大学等が所蔵する美術作品170点ほどを通じて、改めて戦争と平和の問題を見つめ直そうとする展覧会である。 終戦70周年を迎え、日本各地の美術館で戦争と美術に関する展覧会が開催される中で、本展の特色は逆に、被爆に直接結びつく第二次世界大戦だけではなく、それ以前のナポレオン戦争、第一次世界大戦、両大戦間期も扱い、日本と西洋における戦争と美術の関係を幅広いパースペクティヴで捉えようとする点にある。実は、昨年(2014年)は、第一次大戦開戦100周年に当たり、戦争と美術の関わりに対する国際的な注目が高まった。2014年にルーヴル・ランス(ルーヴル美術館別館)で開催された「戦争の惨禍 1800-2014年」展は、ナポレオン戦争を嚆矢として現代に至るまでの、美術による戦争の惨禍の表象を扱っている(「戦争の惨禍」という展覧会の題は、フランシスコ・デ・ゴヤがナポレオン戦争の凄惨な暴力と不条理さを痛烈に告発した版画集のタイトルに因んでいる)。本展もナポレオン戦争から始めているのは、近代戦の始まりといえるこの戦争が、美術をも徹底的に動員する総力戦の先触れとなったからである。この「総力戦」が本展の導きの糸となる。 しかしながら、戦争が美術に及ぼし得る影響は、戦闘期間に限られるものでも、直接的な戦争画のみに集約されるものでもない。それは、あるときは破局の「予感」として、あるときは時間差をともなった「記憶」として、多様な形で立ち現われる。本展で、戦争画のみならず、広島県立美術館が所蔵する両大戦間期の作品や長崎県美術館が所蔵するスペイン美術を展示しているのは、戦争が引き起こす歴史の切断と連続に、芸術家がどのように対峙したのかを考察するためである。こうした「記憶」は、被爆体験をいかに継承していくのかというアクチュアルな問題につながっていく。 私自身は、2009年から2014年まで5年間、広島大学で教鞭を執ったものの、広島出身でもない者がこの問題を語ってよいのか躊躇いがあった。私が本展の学術協力を務めているのも、まずは第一次大戦期の美術の研究者だからである。しかしながら、多かれ少なかれ咀嚼する時間を要しながらも、戦争/原爆の惨禍を表象しようとする芸術家たちの葛藤と困難には、第一次大戦後も被爆後も共通するものがあると気がついてからは、私の研究が少しでも広島に寄与できるのではないかと思えるようになった。 本展に関連しては、戦争画と「原爆の図」をめぐって、広島芸術学会によるシンポジウムも開かれる。今夏、広島はまた新しい意味合いを帯びて、私たちの眼前に立ち現われるにちがいない。
● 入野忠芳・ヒロシマを生きた画家―レッカともえたジャガイモのために (連載第4回=最終回) 大井健地(広島市立大学名誉教授) (5)ヒロシマ基点の生命表現 《浮遊》(70年)の空飛ぶ“妖怪肉クラゲ”のみで、絵は成立するとの確信がレッカ図像単一の、画面いっぱいの“大首絵”となる。背景は陰影なしの白無垢ホリゾント。この設定だけでもレッカ図像が日常自然物でなく観念の創作品であることが明瞭だ。説明はない。巨大な標本のように、痕跡の象徴のようにただ眼前に即物的に存る。 レッカは、漢字でもちろん《裂罅》。広辞苑に立項の語である。これは画家お気に入りで御自慢のネーミングであった(英語表記ではcreviceだが、漢字表記が数等よい)。だからこそここではあえてカタカナでお気軽に言わせてもらう。レッカについて、<原爆がテーマです>とのみで済ますわけにいかないだろう。レッカについて語ることは<絵画と暴力>について何ほどが言えるかという自問にも近い。 絵画に表現された暴力で、人は精神的に追いこまれることが起りうる、か。こどもと弱者・ヒバクシャに用心がいると思う。トラウマになるような、あるいはトラウマ症、PTSDの人にさらに深い傷を負わせるような非道行為に至ってはならない。たとえばドラクロワ《キオス島の虐殺》、《サルダナパールの死》を一方で想定しつつ、絵画の暴力は人の命を奪ったり、今後の生涯と子孫にまで恐怖を与えたりはしないだろうと一般化して僕は言明はできる(ナンタル拙い拙い文!)。
実人生においてことばが人を生かしも殺しもする、この事実との比較において、絵は何をするのか、また画家には何ができるのか。 「核に対抗しうる絵画」の典型を、入野没後のいま、遺された入野レッカ絵画に求めるのはむしろ自然のように思われる。この数年の間の天災から人災までの“想定外”災害の連続(津波と核発電所事故、そして広島には山崩れ)のまえ新たな経験によって、レッカはさらに鮮烈に見直されてもよいように思う。つまり、3・11以後、レッカには新たに意味の検討が模索されてよいのではないか。 人間のまっすぐな成長ではない、無理遣りの剥ぎとりや毟りとりをやったのではないか。レッカは強引な引き裂きを起したのではないか。 レッカはいったい何点あるのか(大規模な入野回顧展あるいは入野画集で全レッカの開陳を見たい)。 1《裂罅75-2》100号。第11回現代日本美術展大賞受賞、広島市現代美術館蔵。 2《裂罅75-3》F100。自由美術展、第1回東京展。 3《裂罅75-6》 広島県立美術館蔵。 4《裂罅76-2》F150。第12回現代日本美術展出品。 5《裂罅78-1》F150。 6《裂罅78-2》S150。 上の便宜的リストで2、4、6が「ヒロシマ70」(泉美術館2015)出品。2では外観表皮部も切断部と同じ植物性のタッチがあったのに、4では消えて無地となっている。左右に二極分断のイメージが強いが、5は4分裂、6は僕には放射能警告マークを連想させる、3分裂の形である。 さてレッカに顕著な線描(「波動」「流形」にも線の強調はある。「風成」「精霊」では弱まる)は油彩では一般に目立たぬものだが入野さんは臆せず、線の強調を避けない。伝統の水墨画(文人画、南画)や今様の漫画、劇画の精神風土を重ねあわせれば庶民鑑賞者が入野線描を嫌う理由は何もなく、むしろ入野さんに(2002年63歳で、文化庁派遣の在外研修として上海で水墨画を学んだ)、中国日本の線の研修成果をうかがいたかった。 多様なレッカの変遷を考えればこの流れがマンガに架橋し文人画に着岸する可能性は少しもヘンでないと思う。「樹石画」という中国絵画の分類を知ると、晩期は「精霊」なる樹木の像に思念を込めた、岩石から始まるというレッカの画家の生涯に平仄があうようでうれしい。
中国新聞が「生きて」と題した入野忠芳取材記事を連載してくれた(2013年6月~、12回。道面雅量氏担当)。これはありがたいことだった。引用すればキリがない。一ヶ所だけ。「振り返って、自分が描いたどの作品もヒロシマと関わりがあると思います。ヒロシマをどう表現するか、単なる記録画とは違うものをずっと追い求めてきた」。「ヒロシマを基点に生命そのものを捉えていくような表現を、僕は目指してきたつもりです」。 彼にはこれらを言う資格がある。 1975年のレッカシリーズから《波動》(便宜的制作年として、80-85)、《流形》(87-98)、《風成》(94-05)、《精霊》( -13)の各シリーズへと本人は意志的仕分けをして制作している。 レッカの背景について言ったようにこの風景は日常の現実世界ではない。地上の遠近法では測定できない「宇宙の原理」の世界なのである。入野さんは宇宙原理による画業を貫徹した。 レオナルドが洪水(生々しい経験であるあの土石流!)をはじめ天然自然の科学現象を探究するように、ヒロシマの地でテーブルの上の入野画布上に大風水害が実験される。液状化した絵具塊をコンプレッサー(空気圧縮機)という機械力を用いて異常暴風にさらす。タブローの地表上に隆起、陥没、噴火、崩壊、高潮、津波などの災禍が発生する。人力の手技を消して自然を模した機械力による造山、造海の風成演習がなされる。 それは自然歴史画から宇宙未来画の射程に入ったと称してよいだろうか。 惰性の絵葉書的観光都市図でなく宇宙解剖図的なもの、人間内面の解明図的なもの。だから真四角画面がふさわしいのだった。常套の黄金比や安定の鑑賞絵画でなく。彼の造形表現は思索追求の方途であったのだから。
● 第111回例会報告 ◇ 高原の美術館と愛媛のニューウエーブ探訪 報告:西原大輔(広島大学) 広島芸術学会の第111回例会は、2015(平成27)年5月17日(日)に松山で開催されました。一行は午前11時に松山観光港に集合し、広島女学院大学の末永航先生の企画に従って、松山を中心とする地域を精力的にめぐりました。 ジャンボタクシーに乗った一行は、まず三津浜の鯛めし屋「鯛や」へ。1929(昭和4)年の古い建築を生かしたこの店は、もともと江戸時代に万問屋(よろずどんや)を営んでいた森家の住宅だったもの。関東大震災後に建てられたこの建物の壁面には防火のための胴版が貼られており、東京などに多く残る建築様式に通じています。 車は一転して遠路山中深く分け入り、午後1時過ぎに久万(くま)高原町の町立久万美術館に到着、学芸員神内(じんない)有理先生の出迎えを受けました。林業を営んでいた実業家井部栄治(いべよしはる)氏のコレクションを核にして、1989年に開館したこの美術館には、高橋由一・浅井忠・萬鉄五郎・長谷川利行等の近代日本洋画の名品をはじめ、渡辺崋山の作品なども収蔵されており、見ごたえ十分でした。久万は、松山と高知を結ぶ街道の小さな町。かつでは裕福な林業家が多かったとのこと。 2時過ぎに美術館を後にした一行は、砥部焼の作家工藤省治先生のアトリエへ。現在、砥部焼といえば、唐草模様(一つ唐草)の染付の肉厚の磁器を思い浮かべます。ところが、これは古くからの伝統模様などではなく、工藤省治先生の発案になるものと知り、非常に驚きました。昭和30年代から40年代頃に始まった意匠で、発想の原点にはペルシャ陶器や唐の鉄絵陶器などがあったとのこと。また、半農半工の町砥部では、かつては職人の技術が低く、薄手の焼きものは作れなかったが、これを逆手にとって、敢えて肉厚の形を定着させた戦略についても、興味深く聞きました。工藤先生の奥様の、廃品芸術のアトリエも敷地内に。 ジャンボタクシーは松山市内に戻り、一六タルト本社に隣接する伊丹十三(いたみじゅうぞう)記念館へ。十三の父で、愛媛出身の映画監督伊丹万作の業績も、中庭のある美しい建物の中の、デザイン性に富んだ空間に展示されていました。俳優・随筆家・映画監督などとして活躍した伊丹十三の研究は、まだ緒にもついていないようです。 久万美術館の神内先生による最後の案内場所は、松山市街いよてつ会館1階の陶器店とロープウエイ通りの物産店エヒメイズムなどでした。どれも、ある若き実業家の企画による店で、店舗も製品も非常にお洒落。販売されているのは、砥部焼・今治タオル・柑橘類などの地元の製品ですが、土産物店の常識を超える高品質のものばかり。愛媛の工芸品の新しい企画販売のあり方を見ることができました。夕方6時頃、一行は松山駅や松山観光港にて解散。鉄道や船でそれぞれの家路につきました。
─事務局から─ ◆ 平成27年2月~6月入会者(敬称略、承認順) 下岡友加(しもおか ゆか)(日本近代文学、日本語文学、台湾史)、シャルル・マルタ(しゃるる まるた)(日本近代文学、外地日本語文学、比較文学)、片山俊宏(かたやま としひろ)(身体論、東洋的身体観、近代日本文化論)、大島徹也(おおしま てつや)(西洋近現代美術史、芸術学、美術批評)、?政(きょう せい)(日本中世絵画、水墨画)、狄媛媛(ちゃく えんえん)(日本庭園の美学)、山本奈実(やまもと なみ)(近代日本洋画、画塾など)、任思聰(にん しそう)(川端康成の美意識研究)、土田耕督(つちだ こうすけ)(中世和歌・連歌における記憶の諸問題)、渠蒙(きょ もう)(インタラクティブ美学、メディアアート等)、川上真由子(かわかみ まゆこ)(アートマネージメント、公募展)、山本和毅(やまもと かずき)(幻想芸術、幻想文学など)、赤木智香(あかぎ ともか)(日本現代文化の美学的研究、「かわいい」)、高橋菜津美(たかはし なつみ)(植物の絵画、高島北海) ◆ 平成27年度総会について 別にご案内していますとおり、来る8月1日(土)に平成27年度総会を開催いたします。平成26年度事業・決算の報告、平成27年度事業計画・予算案などのほか、今回は学会に「幹事」を設ける会則の変更を提案させていただく予定にしております。本学会運営の重要な事項をご審議いただく機会ですので、万障お繰り合わせの上、ご出席いただきますようお願いいたします。 ◆ 会員情報変更等 ご住所ご所属等、会員情報の変更がありましたら事務局へお知らせ下さい。事務局宛郵便またはEメール(hirogei@hiroshima-u.ac.jp)でお願いいたします。会費払込用紙にご記入いただくと把握に時間がかかりますので、できるだけ郵便、Eメールでお願いいたします。 (事務局長:菅村 亨)
─会報部会から─ 次号の会報発行は9月となる見込みです。チラシの同封をご希望の方は、時期・枚数等の詳細について、あらかじめお問い合わせください。 (馬場有里子090-8602-6888、baba@eum.ac.jp)
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