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広島芸術学会会報 第137号
● 巻頭言 少しだけ、センチメンタルな旅 ?山下 今から約20年前、プリクラの隆盛によって、コミュニティの間で小さな写真を共有することが流行した。世界は写真で溢れていた。しかし、今日ほど写真は飽和していなかった。 さて、筆者は昨年の9月末から1週間程、ニューヨークとロサンゼルスへ訪問した。理由の一つは、ゲッティ・ミュージアムで開催された石内都の個展Postwar Shadowsを観に行くこと。そして、そのオープニング・レセプションの余興として、大学時代から続けている能の仕舞を発表するためであった。 ゲッティはアジアの写真家の作品を積極的に収集しており、石内の写真に関しても、日本の写真史の系譜に連なる一人として紹介する意図があったようだ。また、丁寧に整備された庭園が拡がっているゲッティ・センターの敷地には、全米有数の研究調査機関であるゲッティ・リサーチ・インスティテュートも設置されている。 ともあれ、仕舞の発表の際には、物珍しさからか、有難いことにカメラのシャッター音が響き続けた。スーザン・ソンタグは70年代に著した『写真論』の中で、ワーカホリックのドイツ人・日本人・アメリカ人は、珍しいものを見た際には、(休日でも労働の一環のごとく)あくせくカメラで撮影するという話を述べていたが、今日でもそうした傾向は続いているのかもしれない。非日常は、普段よりもシャッターを多く切らせる。そして美術館も、その御多分に洩れない。 ピカソ《アヴィニョンの娘たち》、ダリ《記憶の固執》、マティス《ダンス》など、美術史上の傑作が立ち並んでいるニューヨーク近代美術館(MOMA)では、自館の収蔵品に関しては、個人使用目的での写真撮影が許可されている。ただし、筆者がMOMAを訪問した際には、作品に近付き、名作の横に立つ自分の姿を撮影している人たちが異常なまでに目に入った。FacebookやInstagramに載せるための写真を大量生産しているのだとは思えども、作品に触れてしまう程に近付く人たちには、違和感を覚えた。加えて、作品と並んで写真撮影をするせいで、じっくり作品を眺めることも、なかなか許されない。(比較に出すのは恐縮過ぎるが、)筆者の勤務先でも所蔵作品展の一部を撮影可能としているし、全国的に、展覧会場に撮影コーナーは頻繁に設けられるようになった。美術作品の普及のためにも、撮影行為自体は推奨すべきである。しかし以前は、1枚1枚の写真(あるいは、撮影する行為)にもう少し重みがあったことは間違いない。 さて、石内都の作品は、《ひろしま》のシリーズに顕著なように、汚れ、傷ついた被爆遺物を撮影していても、そこには美しさがあり、生きていた人の姿を想起させるものとなっている。そうした写真の構成は、あたかも複式夢幻能のように、死者によって生前の記憶が語られることに近いかもしれない。そして、それらの写真は一つ一つの被写体に向き合うことによって、生み出されている。今日、デジタルデータ状の写真たちは、物理的に色褪せることなく、ひたすら増殖を続けている。写真は撮影した瞬間に過去になり、哀愁の対象になるとソンタグは『写真論』にて述べた。しかし、今日では哀愁を感じる間もなく、忘れられてしまう写真が溢れているのではないだろうか。カメラをポケットに忍ばせながら、そんな感傷を覚えた昨秋の旅であった。 ● 第114回例会報告 研究発表報告① 日本における「座」の美学の一考察―「岡田式静座療法」にみる「正座」の身体感覚の解明を通して 発表:片山俊宏(広島大学総合科学研究科 博士課程後期) 報告:兼内伸之介(広島大学総合科学研究科 博士課程後期) 片山氏の発表は、岡田虎次郎(1872-1920)が開発した岡田式静座療法に着目し、「坐」に対する日本人の身体感覚と美意識の考察を行おうと試みるものであった。氏は養生論に関する書物を引きながら、日本には近世以前から自身の身心を安定させる〈地〉との繋がりが連綿と続いている、とする。氏によれば、この〈地〉との繋がりが鉄道という新たな交通手段によって攪乱され、「浮遊感」を感じた人々が求めたのが「坐」である。〈地〉に根を下ろす大樹のように〈地〉と繋がり、重心を安定させる「不動不倒」こそが岡田式静座療法の求めるものであり、人々の求めたものである、というのが氏の結論である。
氏の発表は、近代化に伴う不安と、それによって再度見直された「坐」の意義を扱う興味深いものであった。一方で、岡田式静座療法の持つ療法という側面を越えて「坐」を考える必要があるように思われる。たとえば、岡田式静座療法が説く「静座」法は他の静座や正座を行う理由とどのような点で異なるのか、一般に「坐」に求められる精神修養などの積極的要素は求められていなかったのか、などの疑問が浮かぶ。身心の不安への対策という消極的な側面のみでなく、「坐」の持つ積極的な側面に目を向けることで、更なる発展が期待される興味深い発表であった。
研究発表報告② 伝承者と朗読劇―非体験者による被爆体験の語り継ぎについて 発表:土肥幸美(広島平和記念資料館学芸員) 報告:山本和毅(広島大学総合科学研究科博士課程前期) 昨年、ヒロシマは、被爆してから70年という節目の年を迎えた。被爆者の高齢化によって、被爆者自身による語りが困難になりつつある今日、非体験者による語り継ぎの重要性は増すばかりである。土肥氏の発表は、実際に行われている二つの事例を通して、非体験者による被爆体験の語り継ぎが有する課題と可能性を考察するものであった。
二つ目の事例は、土肥氏自身も参加する朗読劇『少年口伝隊一九四五』である。この朗読劇は、『父と暮せば』の原作者として知られる井上ひさしによって書き下ろされたものである。今発表では、朗読劇という演劇スタイルに注目し、『父と暮せば』との比較も交えて分析を行った。土肥氏は、朗読劇の特徴として、観客への語りかけや台本の言葉を重んじる点を挙げる。しかしながら、演出の効果や台本そのものの特性を問う質問が挙がったように、演劇論的な分析の不十分さも垣間見えた。 いずれにしても、二つの事例を通した土肥氏の分析は、〈被爆体験の継承〉の現場に深く根差したものであり、その「真摯な」態度は評価されるべきものであった。発表の結びで「アート化」という表現が用いられたが、依然として被爆体験を〈伝えること〉と〈表現すること〉の関係が不明瞭であり、今後の更なる研究が期待される。 ● 報告 この3月末に復元工事完成式典の行われた猿猴橋、ならびに祭り「えんこうさん」について、復元の会会長を務められた大橋啓一氏に一筆を寄せていただきました。 猿猴橋復元を終えて 大橋 啓一(猿猴橋復元の会 会長)
大正15年渡り初め式 今春、2016(平成28)年3月28日、 松井広島市長、湯崎広島県知事列席のもと、猿猴橋復元工事完成式典(広島市主催)及び、祭り「えんこうさん」(実行委員会主催)の渡り初め式、点灯式が行われた。参加者が延べ1万人を超えたといわれている。 90年前の1926(大正15)年3月16日の竣工式には、新聞報道でも参加者は1万人超え、と記されている。当時の式典の写真には、羽織袴姿の堂々とした関係者の人達が写っている。よほど盛大にまた誇りを持って、橋の完成を祝ったのであろう。猿猴橋は、西国街道の広島市中への入口の大切な橋でもある。広島の流通の拠点として、広島市民の経済、文化の発展を願い、平和を希求した当時の人たちの心意気が伝わってくる。
平成28年渡り初め式 今回復元工事の完成を祝うに当たり、1年前より祭り「えんこうさん」の実行委員会を立ち上げて準備に入った。復元の会に関わった関係上、筆者が実行委員長に推挙された。メンバーは猿猴橋復元の会をはじめ、地元町内会、広島駅前周辺地区、八丁堀・紙屋町地区、市の工事担当関係者等で構成された。計6回の実行委員会を開催し、工事完成式典当日の企画、準備等を行った。 委員の皆さんから、熱のこもった多くの提案や意見が出された。最初に意見が一致したのは、式典では我々も羽織袴を着用し、当時の人たちと思いを共有したいということだった。 次に祭り「えんこうさん」のコンセプトだ。橋の記録(注1)には、「親柱上部には、吉祥を意味して二様の鷹を配置してある。その他大体の様式は『セセッション』式を採用しているので、すべてがその意味によって設計されている。」とある。1915(大正4)年に完成したヤン・レツル設計の広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)も「セセッション」式を採用している。偶然にも今になって思えば兄弟建築物と言える。コンセプトは「吉祥」と決まった。概要は以下の通りとなった。 完成式典は14:00から、14:30からの除幕式、渡り初めのあと獅子舞、子供神輿など。夕暮れの18:15から点灯式があり、「吉祥」のテーマの下、書道パフォーマンス、時代絵巻ショーなど。また、県立大学、市立大学などによる子供向けワークショップやカフェ、地元町内会の屋台十数店など。 復元運動について振り返ると、1926(大正15)年に完成した猿猴橋の華麗な金属部分は、1943(昭和18)年、戦時下の金属供出令により、親柱、中柱、欄干の金属部分は供出されてしまった。それ以後花崗岩のみの橋となり、原爆にも耐え現在に至っていた。 猿猴橋両岸の地元の人たちは、戦後も当時の華麗な橋を思い出しては橋の復元を、事あるごとに語っていた。しかし町内の長老の方も年々数少なくなり、その声もあと僅かとなった
復元猿猴橋 9年も前のこと、南区的場町一丁目町内会役員会で、復元運動は今動かなければ消えてしまう、という危機的発言があった。ようやく2008(平成20)年7月14日対岸の猿猴橋町と的場町一丁目の有志が集まって猿猴橋復元の会を結成することとなった。それから8年余は、猿猴橋の復元CGや橋の模型(35分の1)を広島市立大学の吉田幸弘准教授(のち教授)にお願いして制作し、新聞、テレビ等の報道機関を通じて復元運動を展開した。 復元運動の結果、広島駅前再開発事業に関連し、2014年度の広島市の被爆70周年記念事業の一事業として取り上げられた。偶然が重なった結果だ。市長を初め、お世話になった市の関係者の方々に心から感謝する次第である。 筆者は復元された橋を見て、戦時中1945(昭和20)年8月6日8時15分、原爆投下により被爆した人たちが戦火を逃れて渡った橋、広島駅前の戦後復興を見続けた橋は、悲劇の橋に思えた。今、この橋は息を吹き返したように呼吸をし、生きている。広島人に誇りを持たせ、堂々と胸を張って、きっと広島の未来を見続けるだろう。 祭り「えんこうさん」は来年が本番だ。これを機会に、広島を横断する西国街道沿いの各町内会や地元の人たちが、それぞれの地域の歴史や文化を掘り起こし、再度にぎわいづくりに挑戦していただきたい。
それにより広島人としての立ち位置を確立されんことを願いたい。
―事務局からー
(馬場有里子090-8602-6888、baba@eum.ac.jp) 総会・大会のお知らせ(予告) 今年の総会・大会は、7月17日(日)・18日(月)に県民文化センターにて開催します。 概略は以下のとおりです。詳細は次号会報にてお知らせしますが、皆様にはご予定くださいますよう、 お願い申し上げます。
7月18日(月):シンポジウム なお、研究発表の申し込み手順については、下記をご参照ください。
(2)委員会で研究発表の主題および要旨を審査の上、発表を依頼します。
― 次回第115回例会のご案内 ―
陶器と建築のお散歩:福山・鞆の浦 新緑の美しい初夏に、福山・鞆の浦を散歩してみませんか。
ハンガリー、ブタペストから到着した150年前のヘレンド陶器約200点(広島県内初公開)。セセッション(分離派)様式を広めた建築家・武田五一の展示、和風モダン建築の元祖・藤井厚二の「後山山荘」
を、福山・鞆の浦の新緑のなかで鑑賞します。
ヘレンド陶器
Eメール= hirogei@hiroshima-u.ac.jp(締切=5月7日(土))
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