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                                            広島芸術学会会報 第91号

 

 

現代アートの現場から
高原 小夜

 あっという間に、両手が絵の具でべとべとになった。使う道具は段ボールと絵の具と定規だけ。筆を用いず、道具を代えただけでも思いもつかない表現が次々と出来上がる。子どもたちから「おもしろいよ」の声が聞こえる。
 主宰する造形美術研究所では、幼児・児童のあるがままの気持ちや弾むような、湧き上がる感性、そして乳幼児期にはしっかりと持っていた動物的本能を大切にしている。講師はテクニックの指導には重きをおかず、材料や 材のコーディネートに徹している。子どもたちには、少しの刺激とひらめきを促す程度に抑えている。材料はあくまでもシンプルで無限に発想し創造できるものを選定している。子どもの感性と力量でどうとでもなり得るものが面白いのだ。明るい、楽しい、肯定的な雰囲気の中、感性は生き生きとしてくる。
 子どもの精神面の危機感が問題となっている今日、美術教育はすべての子どもにとって必要ではないかと思う。例えば、勇気、工夫、創造力、洞察力、個性など「生きる力」として大切なものである。これらの指導は美術を通して道徳教育ができるのではと思うのである。真っ白い画用紙にデッサンしたり、彩色する。無から有に変わる瞬間である。これは大変勇気のいることだ。制作中、 工夫することを考えなければならないことは多々必要となる。何々が無いからできないなどと言っていられない。何とか考え、工夫する知恵がいる。創造力は自分の中でいかに想い描くか。芸術活動を通じて訓練されるのである。洞察力は深く物を観察すること、感じること、考えることで身につくもので、作品制作になくてならないことである。物の形について思いめぐらし、また思いやることは思いやりを育むと同時に、物を通じて人間について思いをめぐらすことができるようになると思う。個性は自分なりの発想であり、芸術の世界ではオリジナリティは大切なことだ。学校教育で詩人、金子みすゞの「みんなちがってみんないい」を引用しているが、まさに芸術の世界がそうである。人と違うことは変なことでも、間違っていることでもないと思えれば、今の子どもたちもかなり気が楽になるだろうにと思う。朝、目覚めたら、あらゆる色と形が目に飛び込んでくる。美しい自然、それ以外はすべて人が創ったもの。物を 然と見ないでよく見れば、美的センスも身につき、アートは人生を豊かに楽しくしてくれるであろう。そのことを教えたくて、日々子どもたちと作品を通じて心通わせている。

(造形美術研究所主宰・たかはら さよ)



第77回例会報告

子どものための哲学:物語と対話
講演:広島大学客員教授 K.L.ファン・デル・レーウ

 本講演における「子どものための哲学」とは、小学校段階の子どもと教室で哲学的対話を行う試みであり、マシュー・リップマンによって1970年代以降に米国ではじめられた。その目的は、教師が子どもに哲学の知識や歴史を教えることにはなく、あくまでも子どもに自立的な思考の発達のための足場を与えることにある。したがって教室では、子どもが哲学を「する」こと、すなわち哲学的な疑問や問題について考え、議論することに重点が置かれる。また議論は、子どもが他の子どもとの間で、問題に対する共通の答えを見いだす探究ともなる。教室における哲学は、異なる意見への寛容さを子どもに求めるのであり、この意味で対人的な技能の育成にもつながっている。
 続いて、子どものための哲学の方法論が説明された。まず、教師の役割は議論の進行役である。進行役は子どものグループを、意図された結論へ導くのではない。議論の端緒となる賢明な質問を立て、発言の中で何が重要であるかを子どもに気づかせるような哲学的直観が、進行役に求められる。最も一般的な方法は、教室で子どもたちを円になって向き合って座らせ、哲学的なテーマを含む短い物語を読む、あるいは子どもたちに読ませることである。こうした方法は、議論の方向性を仕組む策略と見えるかもしれない。しかし実際の議論は様々な質問や問題の発見へと展開し得るものであるし、あるいは、「いかなる質問が哲学的な議論に見合うのか」ということそのものを、哲学的な問題として提示することもまた可能である。以上のような物語の利用のほかにも、絵画作品をめぐって、その美的価値について多角的に議論する方法なども大変有意義である。
 哲学のテーマは、子どもの年代や関心に応じて限定が必要となるという。一方で、一つのテーマが議論の過程で様々な展開を見せた例も紹介された。あるクラスでは、視覚障害の子どもが「黄色」とは何かを理解しようとする物語が読まれた。これに対してまず、視覚障害のある人に「黄色」とは何かを教えることは可能か、という問題が生じた。そこから、「黄色」の対象物を示すことと「黄色」の観念を伝えることの違い、さらにはその観念を伝えるための基準値とし得る「黒」を視覚障害の人は見ることができるのか、などの疑問が次々と生じた。その際ある少女は、父親が死の間際に盲目となった際、黒を見たと言った、と発言した。それまで周囲に父の死について語ることの出来なかった彼女の発言は、哲学的な対話が、子どもたちを一段高い関心のレベルへともたらし、個人的なことや痛みを伴うことを話す行為をも可能にしたことを示している。
 「子どものための哲学」に関する、レーウ氏の幅広い知見と様々な教室の事例に裏付けられた本講演は、樋口聡先生の的確な通訳によるご助力もあり、非常に興味深いものであった。講演後の質疑応答では、このような哲学的対話を経験した子どもたちがいかに成人したか、あるいは哲学的対話とディベートによる二項対立的討議の相違点、などが話題となった。初等教育の現場における哲学的議論・対話の試みが、対象となる子どもたちに対してはもちろんのこと、本講演のような機会を通してそれを聞く私達のあいだにも、刺激を与えつつ広がり続けることを望みたい。

(報告:広島大学大学院 川口佳子)



シンポジウム「子どものための哲学と芸術」

パネリスト:香川龍介(画家、元広島市立毘沙門台小学校長)
       角田 新(広島県立美術館主任学芸員)
       三根和浪(広島大学教育学部助教授、美術教育)
       三桝正典(造形作家、広島大学附属東雲中学教諭)
司   会:金田 晉(広島大学名誉教授、美学)

 本シンポジウムは、さまざまな方面で〈子どものための美術教育〉を実践してきたパネリスト4人の経験談を聞き、フロア全体が同じテーマについて考えるという形式で開催された。
 香川氏は、理想的な制作とは、作品を自分の支配下に置くのではなく、作品が自分を支配するような関係を築くことだと主張した。小学生の美術教育に携わってきた氏は、このように自分の思い通りにはならない〈もの〉、あるいはむしろ自己を動かしさえするような〈もの〉――それ自体は目には見えず、言葉では語り得ない〈もの〉――の存在を子どもに伝え、〈もの〉との関わりを自覚させることの重要性を説いた。それは単に藝術という特権的な場に限られるものではない。道徳の根は自分自身や他人や社会など、多くの〈もの〉と関わるところにある。香川氏の発表は、さまざまな〈もの〉との関わりを自覚的に構築していく作業の象徴として藝術行為を捉えた発表であった。
 角田氏は、山間部や離島部など美術館に簡単に足を運べない子どもたちのために作品を運び、鑑賞したり、模写したり、絵を見た感想や連想した物語を語り合うという、現物教育の場を提供してきた。このような活動を展開してきた氏が、〈おもちゃを買ってあげるから〉とか、〈あとでケーキを食べさせてあげるから〉といって、美術館に子どもを誘う大人にこそ問題があると力説したことに、報告者は興味を引かれた。氏はまた、「本物を目の前にして初めて感じ取ることのできるものがある」と主張したのだが、前の香川氏と同様に、子どもにとって〈もの〉と出会う体験それ自体を主目的とすることの重要さと困難さを指摘しているように思われたからである。
 三根氏は中学校で美術を担当した後、広島大学で鑑賞教育のためのワークシート作りに携わっている。氏は、「培」という字が、「草木の根や種に土をかけ、植物自体がもつ成長力を伸ばす」ことを意味すると説いた上で、大人の想定している場に子どもを引き上げるのではなく、子どもたちに機会を与えること、子どもたちが持っているものを伸ばすことの重要性を説いた。氏が紹介した展覧会「児童幼画堂」や研究会「図工の力」において、子どもたちが色や形や材質などを自分たちで確かめながら作品の制作過程を体験する、という取り組みもまた現実(三根氏自身は「リアル」語っていた)の〈もの〉と出会う体験を子どもたちが自覚的に行う作業である。大人の価値観を押し付けるのではなく子どもの潜在力を伸ばすという点については、後に香川氏が疑問を投げかけたが、学習院大学名誉教授の川島優が「子どもの頭や心に材料がない状態で考えろ、といっても無理なんです」と述べたことを想起させる。「基礎学力」と「応用力」のバランスをとりながら教育することが重要だということであろう。
 三桝氏は、「自分とは何か」「生きるとは何か」を表現することを藝術行為だと位置づけ、自分の中の美しいものを一生懸命に楽しむことの重要さを力説した。氏は、藝術とは、表現においては「自分はなぜこのように描いたのか」を反省し、鑑賞においては「自分はなぜこの作品が好きなのか」を自問する、言葉と感性の交錯する場であると説いた。また、こうした活動を通して、人は自らが生かされて生きていることを自覚することの可能性を論じた。氏もまた、〈もの〉との出会いによって触発される他者への眼差しを重視している。
 〈子どものための〉とタイトルがつけられていたものの、むしろ子どもと関わる大人において、子どもや社会あるいは名づけられ得ぬさまざまの〈もの〉の象徴としての〈藝術〉と如何に関わるべきかを考えさせるものであった。 

(報告:広島大学大学院 長迫英倫)



インフォメーション

■東広島市立美術館特別企画展 現代の 形-Life&Art-
 「竹 美への叢生」

 東広島市立美術館では、「現代の造形-Life&Art-」を大テーマとした展覧会を企画し、美術と産業・生活の接点において、人や生活と美術とのかかわりを造形の視点から幅広く捉えなおすことを目指しています。
 本年は、生活と美術とのかかわりに注目し、近年、山林の植生破壊による環境問題から竹炭などの天然素材としての製品まで、人々の日常生活の中で幅広く注目を集める「竹」をとりあげています。
 この展覧会では、そうした「竹」を、絵画・彫刻からインスタレーションまで、分野を問わず現代の美術として 形した作品を展示しています。

会 期:2月9日(金)~3月18日(日)
月曜日休館。開館時間は10:00~17:00(ただし、入館は16:30まで)。
出品作家:五十嵐史帆、石丸勝三、梅田美春、岡原大崋、木村東吾、坂本奈穂
竹内雅人、中村圭、難波章人、原田文明、笵 叔如、藤江竜太郎(50音順)
入 館 料:一般600(500)円、大学生300(200)円、高校生以下は無料、( )内は20人以上の団体料金。


■講座「美学の将来」2005発刊のご案内

 このたび、広島芸術専門学校(広島市南区的場町)で開催された2005年度現代文化講座「美学の将来」(講師 金田晋先生)の記録集が、100部限定で発刊されました。現代社会において芸術は何ができるか。目先の暗澹、焦燥をこえて、希望のイメージを、私のではなく、私たちの共同の財産にするために、美学はどのような役割を担うかを考える。受講者は研究者、作家、一般愛好者等多彩で各論10テーマの講座内容と受講者のレポートが掲載されている。手づくり限定で残り冊数が僅かとなりました。希望者会員の方には1冊900円にてお分けいたします。事務局大橋(FAX082-506-3062にて)までご連絡ください。
なお現在、講座「美学の将来Ⅱ」2006を開催中です。さらに4月以降も講座「美学の将来Ⅲ」2007を行う予定です。受講希望の方は大橋(TEL082-506-3060)までお問い合わせください。


■ 画『ちゃんこ』のDVD、5月に販売予定!

 広島大学相撲部の実話が映画化され、話題になった『ちゃんこ』を覚えていますか。同大相撲部を約20年前に創部し、現在はOB会会長と副監督を務める柴川敏之氏(福山市立女子短期大学美術デザインコース・広島芸術学会会員)が、シナリオ作りから美術関係までアドバイザーとして手伝いました。柴川敏之氏の役である「松川敏之」を俳優の渡部篤郎氏が演じています。映画の中に、「松川敏之」がひろしま美術館でゴッホについて語るシーンがあり、ひろしま美術館で撮影したゴッホの「ドービニーの庭」がフル画面で登場します。なぜ、ゴッホなのかは観てからのお楽しみ(もともと「ドービニーの庭」はベルリン国立美術館に所蔵されていました)。なお、柴川氏自身も「村相撲の中年男性、選手A」としてまわしを締めて出演しています。
 なお、この 画は英訳され、今年2月に「第57回ベルリン国際映画祭」でも上映されました。

映画『ちゃんこ』の公式ホームページ
http://www.dreamonefilms.com/chanko/index.html

 

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