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広島芸術学会会報 第98号
広島芸術学会第22回大会資料●研究発表要旨①荻生徂徠における古楽の復元 ―楽律・楽制・琴学に関する検討―広島大学大学院博士課程 陳 貞竹 古楽の復元という主題は、例え中国の朱熹、蔡元定、朝鮮の丁若庸にも見られるように、儒教思想の展開とともに近代以前の東アジアと広がっていた研究テーマの一つである。そこには個別の研究文脈において、異なる視点・方法が用いられ、古楽復元の作業がさまざまに試行された。 江戸において、古楽の復元に関する議論はそれほど大きく取り上げられていないが、積極的に行ったのは、荻生徂徠・富永仲基等が挙げられる。中では、例えば徂徠の楽論を修正しつつ継承する太宰春台・山縣大貳等がいたのに対して、富永仲基のように徂徠楽律論を強く批判する人もいたように、継承にせよ、批判にせよ、徂徠は、江戸における古楽の復元に重要な基点となっている。つまり、江戸における古楽の復元という主題の展開を把握するに当たって徂徠は避けられない存在である。 古楽の復元について徂徠が具体的に取り組んだのは、楽律・楽制・琴学に対する論考である。これらの業績は、従来、古楽譜の「幽蘭」の解読に大きな業績を残した琴学研究では高く評価され、他方、徂徠の楽律に対する認識は、歴史的な事実と乖離する点でマイナス的に評価されてきた。これらの評価は、音楽考証からの客観的な評価である。しかしながらその一方、江戸において古楽の復元はいかに論じられたかを把握するに当たって、音楽思想からのアプローチで徂徠の古楽研究を検討する余裕がまた残っている。 本発表では、江戸における古楽の復元を検討するための一つ基礎作業として、荻生徂徠における古楽の復元に焦点を当て、その楽制・楽律・琴学の捉え方、及びその総合的な関係を検討し、徂徠における古楽の復元の在り方および特徴を明らかにしたい。②オーネット・コールマンの音楽―そのヘテロ性と自由―大阪大学大学院博士課程 佐々木 優 オーネット・コールマン(1930-)は、アメリカ・テキサス州出身のジャズ音楽家である。1950年代に演奏家・作曲家としてのキャリアをスタートして以来、従来のジャズ演奏のスタイルにおさまらない彼の音楽は「フリー・ジャズ」と呼ばれてきた。コールマンをこの動向の創始者の一人と見なすという点において評価は安定しているが、彼の音楽そのものに関しては活動の当初から現在に至るまで賛否が分かれている。こうした賛否の激しい対立は、コールマン自身が自らの音楽理論として提唱する「ハーモロディクス」なるものの存在によってさらに拍車がかけられている。コールマンは1972年以降、このタームを頻繁に口にするようになり、ハーモロディクスという理論体系をまとめたものを書籍として公刊するとの発言を繰り返してきた。しかし、未だ公にされることなく、半ば秘教化されたまま現在に至る。 こうした状況の中でコールマンを考察しようとするならば、まずは作品や演奏自体を分析してみる他はない。分析を通してわかるのは、様々なレヴェルでなされる異質なものを共存させるコールマンの手法、その所謂「ヘテロ的」なあり方である。本発表は、こうした理解のもと、コールマンおよび彼の理論であるハーモロディクスの位置づけを試みる。その際、コールマンにとっての「フリー」な演奏とは何か、ということが同時に問われることとなろう。●報告要旨岡本太郎《明日の神話》広島誘致顛末記美術評論家 竹澤雄三岡本太郎・敏子にとって広島は特別の町であった。だが《明日の神話》の恒久展示場として、広島は一貫して「ヒロシマ」を主張したが、東京の渋谷と決定されてしまった。しかし、広島のその姿勢は今後のまちづくりに反 される。●テルミン奏者のプロフィル船田奇岑(ふなだ きしん)CBSソニー中国地方SD、制作スタジオ サウンドデザイン MITなどを経て、現在もHALEレーベルなどで活躍中。本業は絵師。日本画から現代美術まで幅広く活動し、東京・代官山アートフロントギャラリー、広島・福屋本店美術画廊などで個展を多数開催。2007年開業のザ・ペニンシュラ東京には130点の作品がある。最近はテルミン(Theremin)の即興演奏での可能性を求めて、現代邦楽、フリージャズなどのミュージシャンとも、コラボレーションを数多く行っている。投稿・エッセイ「愛に国境なし」-6.7四川大地震救援チャリティーイベントの報告范 叔如 5月12日、中国四川省?川でM8の大地震が発生しました。死者は7万人近く、今なお行方不明者約1万人、負傷者に至っては30数万人に上り、被災者全体は1千万にも及ぶ大災害です。甚大な被害は、生き残った人々の生活にも深刻な影響を与えています。この地震は1976年7月に起こった唐山大地震以来、中国最大規模の地震となりました。被害は広範囲に及びましたが、特に小中学校の校舎倒壊により多くの児童生徒が犠牲となり、世界中の人々を悲しませました。世界各地から次々と支援が寄せられる中、日本からはいち早く救援チームに続いて医療チームまで派遣され、中国の人々に感動を与えました。 広島県と四川省は友好提携都市であり、広島に住む一中国人として、さらには一芸術家として、震災地に何かできないかと考えました。そこで広島国際書芸交流会代表の馬仁武さんと相談した結果、広島で芸術活動をしている中国人音楽家・芸術家たちとでチャリティーコンサートと書画作品の実演即売を実施し、広く来場者に被災者義援募金を呼びかけることにしました。その輪は次第に広がって、日本人の音楽家や書家らも参加することとなり、広島市と広島平和文化センタ-からは共催支援を受ける形で、最終的に6月7日、広島駅エールエール地下広場にてイベントが実施されました。 今回の広島在住の中国人ならびに日本人音楽家と書画家による「中国・四川大地震救援チャリティーイベント」は、参加者すべてボランティアで、交通費や書画の用紙まですべて自費で賄いました。5時間にも及んだイベントには多くの市民が訪れ、同地の被災者救援に向けて市民の関心を高めるとともに多額の募金を集めることができ、救援活動の一助とすることができました。募金への参加者は延べ400人、集まった総額は54万円あまり。広島市・広島平和文化センタ-から日本赤十字を通じて中国赤十字に贈る予定です。 アーティストたちが提唱した今回の救援チャリティーイベントの開催は、芸術家社会における一つの非常に意味ある活動に違いありません。芸術家はいかなる社会的責任を担い、市民との交流活動はどうあるべきかについて考えさせられ、一般市民たちの被災地の人々に対する深い同情と心温かい支援は、参加した芸術家にも感動を与えました。日本の社会は、今回の四川大地震に極めて大きな関心を寄せています。災難時の人々の愛は、国境を越えると実感した次第です。 今回のイベント出演者 書画は臧新明、王海賓、馬仁武、范叔如、朴曜子、吉井美智子、村中美香子、西谷洋美。歌は韓伶俐、申咏梅。二胡は姜曉艶と広島二胡十二楽坊。ビオラ演奏は沖田孝司。篠笛演奏は江村章子。バイオリン演奏は周艶。古筝演奏は夏田。オカリナ演奏は江村克己。ハープ演奏は藤田真衣、西川有里子。変臉は王若涛。また他の参加者は金樹華、金嵜耕壮、内田政美と安田女子大学書道専攻の学生たち。代表は馬仁武。(敬称略)「軽生」する日本人?広島大学 袁 葉 2008年―中国人が鶴首して迎えた年だ。アヘン戦争以後の長い間、西洋人から「東亜病夫」(東亜の病弱な人)と言われていたこの国で、オリンピックが開催されるからだ。 ところが今年に入り、「餃子事件」や「チベット騒乱」、「聖火リレーへの妨害」などの芳しくないニュースが相次いで流れており、胡錦涛国家主席の訪日によってさえ、その暗雲を吹き飛ばすことができなかった。 加えて、世界的にも稀に見る大地震が、中国の四川省を襲った。まるで今まさにジャンプしようとした人間が、顔面パンチを喰らった上に、脚までへし折られたようで、もう「オリンピックどころではない」と思われた。 とその時、日本のマスコミは大地震報道の翌日から、救援募金を呼びかけた。なんとコンビニにまで募金箱が…、胸が熱くなった。 さらに外国からの救助隊の中では、日本が先頭切って現地入りした。任務を終えた隊長は,生存者の救出に至らなかったことを悔やみながらも、被災者からのカップ麺の差し入れや、子供がチョコレートをくれたことを述べた。命がけの救助活動が、衣食にも事 く人々にも感動を与えたのだろう。 しかし、中国人の心を打ったのは、なんと言っても、瓦礫の中から遺体が運び出される度に、日本の救助隊が黙祷する姿だ。 日本人の「生死」に関していえば、中国人はつい、「切腹」や戦時中の振る舞い、自殺者の多さなどから,「軽生」(生命を軽んずる)と結びつけてしまう。日本人の救援活動ぶりは、テレビを見た中国人の間に大きな波紋を広げた。日本を快く思わないと書いたある中国人でさえ、ネットに次の文を載せた。「…日本の救助隊が今回被災地で犠牲者に捧げた黙祷は、私たちの心を強く揺さぶった。我々は知っておかなければならない。彼らが救助活動中に見せる死者への哀悼と告別、それはどの隊員も真摯な態度で、身体中から人間性の輝きを放っている。その悲しみ、その情は天地を揺るがすものである。(中略)我々は言いたい。『友よ、いつか中国人は必ず恩返しをします。』」(筆者訳)このような文章は、ネット上に数多く寄せられている。 そもそも、両国の「死」に対する考え方は大きく異なっている。中国語には「死生観」という言葉はなく、「生死観」となる。中華人民共和国成立後、死後の世界を迷信として批判してきた。今ほとんどの中国人は無神論者である。「死」とは体の機能が停止して土に帰ること、一種の自然現象として捉える。一方日本では、肉体が無くなっても魂は生きている。「千の風になって」の大ヒットの所以だ。また、中国には昔から「善人は死んでも善人だ、悪人は死んでも悪人だ」という考えがあるのに対して、日本では「どんな人でも死んだら仏になる」(死者に鞭打つのを嫌う)となる。 日中関係が近年ちぐはぐになっていた。「遠親不如近隣」(遠い親戚より近くの他人)日本と中国とは、喧嘩しても引っ越すことのできない宿命的な隣人になっている。 今回の大地震は、奇しくも中国人の日本人に抱くイメージを大きく変えてくれた。これを機に両国民が互いの伝統文化や風俗習慣はもとより、ものの考え方の相違についてより理解を深めていけたなら、唐の時代のような友好関係が続くのではないだろうか。「祈り」画家 高山博子 昨年、私は二度インドに出向きました。それは運命の糸に導かれるような不思議な縁の連続で、私にとっては夢に、未来に向かう新たな旅立ちになりました。以前から憧れていたタゴール国際大学を訪れることができたのです。タゴール国際大学はシャンティニケタンにあり、インドの生んだ最大の詩人で哲学者のラビンドラナート・タゴールが1901年に設立しました。日本からは明治時代より、岡倉天心、横山大観をはじめ哲学者、画家、音楽家が訪れ、多くの留学生が学んできました。ここでは精神的な豊かさを発見できる。タゴールの理想とした世界が広がっているのです。 一度目の訪問は6月下旬から7月でした。梅雨時期のインドは経験したことがなかったので、多少の不安もありましたが、大麻様からシャンティニケタンに長く住んでいらっしゃる牧野財士先生のことをお聞きして、是非訪ねてみたいと思い立ち、そう思うと一刻も早く実現したくなったのです。牧野先生は日印関係史の生き証人のような方です。昭和33年、34歳でインド教育連盟の要請により獣医畜産指導のため船でインドへ向かい、50歳の時、タゴール国際大学の日本語教授になられ、15年間もインド人学生に日本語を指導されました。 大麻様から牧野先生のことをお聞きし、カルカッタのホームステイ先のディパリさんにお尋ねしたらなんとか住所も分かるのでは、と助言をいただいていたものの、私には何のあてもありませんでした。ところが何十年ぶりかというモンスーンで、カルカッタはすごい雨でした。ホームステイした家の前の道も1メートルくらい水が溜まって外出もままならず、雷に停電です。私の人生で経験したことのないことばかりで驚きと恐ろしさで、心も不安定になり、雨がやんでくれますようにと祈る日々でした。 しかし、雨はやまず、仕方なくシャンティニケタン行きを断念し、デリーに戻ることにしました。その前に日本山妙法寺のカルカッタのお寺にお参りしました。そこでお話をする機会を得たのは斉藤上人です。私は牧野先生を訪ねたくてインドへ来たとお話をして、日本へ帰りました。 梅雨のインドは貴重な体験でしたが、シャンティニケタンへは行けませんでした。帰国して1ヵ月余り経ったころ、もう一度チャレンジしようと心に誓っていたころでした。思いがけなくインドの斉藤上人からお便りを頂戴しました。そこにはシャンティニケタンの牧野先生の家の電話番号が記されていました。斉藤上人は私のためにわざわざ調べてくださったのでした。嬉しくて感謝の気持ちでいっぱいになり、すぐインドへ電話をかけました。牧野先生に是非、お会いしたいという思いを伝えさせていだだきました。 デリーの日本山妙法寺で11月14日に世界平和仏舎利塔の落慶法要があることを聞いていたので、その法要に参加し、その後でシャンティニケタンに行きたいという思いがわき起こってきました。 二度目の旅はこうして実現しました。法要に参加するツアーに同行させていただき、途中から単独でカルカッタへ向かう予定になりました。 日本山妙法寺はこれまで、山口恵照先生とともに何度かお参りをさせていただいたことがありました。故藤井口達先生は世界平和を願い、ガンジーのアヒンサー(非暴力)とインドの独立運動に理解を示されていました。そして藤井先生の随身であられた堀内克子さん。小柄で華奢なお姿からは想像のつかないほどの熱い思いで多くの苦難を乗り越え、仏舎利塔の完成にこぎつけたと聞いております。 式典にはダライ・ラマ猊下をはじめ多くの方々が集まられ、世界平和を願う祈りの声は天高く響き、それは崇高な雰囲気でした。私も片隅で自分の芸術を通じてインドにお返しができ、世界平和へとつながる何かの架け橋になりたいと誓いました。 カルカッタに着くとすぐに牧野先生からお電話をいただきました。牧野先生は「用事でカルカッタへ行くのでその時会って、一緒にシャンティケタンへ帰りましょう」と言ってくださいました。 カルカッタの日本山妙法寺で牧野先生に初めてお会いすることができました。それから、3時間ずっと同じ汽車でシャンティニケタンへ向かったのです。到着してすぐに牧野先生ご夫妻は私の宿泊先を見つけ、タゴール国際大学へ行って、学舎の間に立つ仏像やタゴールの住居の跡、タゴール博物館、瞑想ホールを案内してくださったのです。雄大な自然の中にある大学。そこには人間の本来の営みが根強く残っていると感じました。 私は27年前、初めてインドと出会い、幾度もインドを旅してどのような生き方をすべきかを学ばせていただきました。画家として、人をテーマに生命の喜びを描きたいとこの道を歩んできました。今年、50歳を迎えます。インドから帰国し、残された生命、自分の芸術を通して愛するインドと日本の架け橋になりたいという気持ちがいっそう強くなってきました。 仏様のお導きとしか思えません。タゴール国際大学でお目にかかった美術科の学部長から、今年2月に招待のお手紙を頂戴しました。そして今年11月からタゴール国際大学へ客員教授として赴くことになったのです。インドが私を呼んでくれたと、感謝の気持ちでいっぱいです。インドと私何か昔から糸で結ばれていたような気がしてならないのです。 振り返ってみれば昨年のインドの旅は祈りの旅でした。カルカッタの日本山妙法寺から始まり、デリーでの落慶法要、そして牧野先生との出会い。仏像とともに、仏様に守られ導かれての旅でした。長い人生、どんな苦難に出くわすか分かりませんが、いただいたこの道一筋に精進していこうと誓いを新たにしています。生かされている一人として、世界が平和であることを願い続けます。
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