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広島芸術学会会報 第99号
展覧会ツーリズム 松田 弘
9月18日まで、広島県立美術館では「ル・コルビュジエ 光の遺産」展が開催されている。と、他人行儀な言い方はやめて素直に言えば、この展覧会は私の担当である。 ル・コルビュジエ(1887-1965)は20世紀モダニズム建築を代表する建築家である。今年、彼の設計した建築作品22件が世界遺産に申請され、本展覧会ではそのすべてを写真や模型などで紹介している。 さて、この展覧会について、私の友人の編集者から言われたことなのだが、見ているうちに「旅」をしているような気分になったというのである。展覧会としてのツーリズム。うーむ。虚を突かれた感じだが、確かにこの展覧会を通底するテーマとして、旅というのはあるのかもしれない。 まず、第一に、今回世界遺産に申請されたル・コルビュジエの建築は、フランス、ベルギー、ドイツ、スイス、日本、アルゼンチンに及ぶ。ヨーロッパ大陸から極東の日本、そして南米大陸まで、地球をぐるっと一周している。(なお、インドも当初は含まれていた。) 第二に、ル・コルビュジエは若い頃、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャ、 トルコなどを経て、最後はイタリアを北上してスイスに戻る大旅行をしている。この間、アテネのパルテノン神殿、ポンペイの廃墟の町並みなどの写真を残している。この写真は少々ピンぼけだったり、露出が不十分だったりするが、建築家「ル・コルビュジエ」が確立される前の青春の遍歴を見る思いがする。心の旅と言ってもよいだろう。これらの写真は今回初公開である。 ところで、最近、あなたは旅をしていますか。仕事が忙しいとか、一緒に行ってくれる人がいないとか、お金が無いとか(これが一番切実だが)、なんやかやと理由をつけて旅に出ていないのでは。言うまでもなく旅の効用は日常を離れて、精神をリフレッシュさせることにあります。美術館の中でル・コルビュジエ展を体験するだけでも、精神の「旅」はできるのです。さあ、美術館で非日常の旅に出よう。 と、ここで普通は終わるのだが、ふとあることに気がついた。私たちの日常の中にこそ、実は小さな旅行が繰り返されているのではないかと。その積み重ねが人生という奥深く、深遠で、壮大な旅になっていくのではないかと。うーむ。日常を軽く見てはいけないと思う今日この頃です。
(広島県立美術館学芸課長 松田 弘)
広島芸術学会第22回大会報告
<研究発表①> 荻生徂徠における古楽の復元 -楽律・楽制・琴学に関する検討- 発表:広島大学大学院博士課程 陳 貞竹 報告:東京芸術大学教育研究助手 朝山奈津子
江戸中期の儒学者、荻生徂徠(1666-1728)と音楽との関わりは特に、明代の琴曲《幽蘭》の譜を解読、作品を復元したことで知られている。それは、徂徠が儒者として中国古代の音楽全般を深く研究した末の成果であった。しかし、徂徠が残した著作の多くは、史的考察が不十分で論に飛躍多しとの理由から、伝統音楽の理論と実践において顧みられることが少なかった。そうした中、陳貞竹氏の研究は、徂徠の音楽論全体を古楽の復元という観点から取り上げるという、興味深いものである。今回の発表では、膨大な原典資料を丹念にあたった成果の一端が披露された。以下、発表の流れに沿って報告する。 陳氏はまず、「古楽」すなわち先王の時代の音楽の復元が中国、韓国、日本の儒学に共有される重要なテーマであったことを述べた上で、中国における議論と徂徠の主張との相違を指摘した。中国では、正確な伝承と音律の計算方法が問題である。しかし徂徠は著作『楽律考』において、日本の十二律と中国の現行のそれとの違いを検討し、日本の楽律こそ大陸ではすでに失われた周漢時代の正統のものであると結論した。従って、真の古楽は日本に保存されており、計算で導き出すまでもなく再発見されうるのである。 これを踏まえて次に、徂徠の独特の理論である「五調」が紹介された。音階上の相対的な位置を表わす5つの階名(宮商角徴羽)を普通は「五声」と呼び、中国の古楽復元論においてはそれぞれの音が人間に与える影響を議論する。しかし徂徠は、著作『楽制篇』においてこれを「五調」、すなわち5つの音階種と捉え、日本の雅楽の五調子と結びつけた。そして、中国では見失われ見誤られた古い理論が、またしても日本には生きたまま残っていると主張する。 陳氏はさらに徂徠の『琴楽大意抄』を読み解き、その音楽論の本質に迫る。楽器はそもそも歌の伴奏であり、歌を引き立てるために歌とは別の調をとらねばならない。そして、異なる調の演奏をうまく調和させることから、君主が広く多様な臣下の意見を入れて正しい政治を行なうことを学びうる、と説く。古楽の実践は天下の治平に通ずる道なのである。 徂徠はこのような観点からさらにさまざまな音楽を評価した。俗楽、能など現行の諸楽は総じて古楽の精神に反している。のみならず中国についても、漢唐の時代以降は正統な楽が実践されず、中国はもはや夷狄に異ならない、という。一方、日本には古楽が本質的に保存されていることから、我が国こそが真の王道の後継者であると述べた。 陳氏の発表はこのように、徂徠の音楽論が儒者としての体系的思想の中枢に関わることを明らかにし、それが強烈なナショナリズムに彩られていることを指摘するものである。発表の最後には、古代の先王がなした詩書礼楽の四術による「士」の養成を手本として、江戸においても武士の音楽教育を徂徠が推奨した可能性に言が及んだ。「士」がすなわち武士を意味するかどうかは議論の余地があろう。しかし、歌舞音曲の類に積極的ではなかった武家の因襲の中に、「楽」を取り入れる余地があったとすれば、たいへん興味深い。今後の研究から、徂徠の実践についても明らかにされる予定である。 筆者はフロアより、徂徠がナショナリズムを主張した背景について質問した。これには、漢民族の王朝が絶えて満州族の清が興り、中国の権威が減じたこと、また、朝鮮通信使の将軍謁見に際して日本文化の位置づけを明確にする必要があったことが考えられる、との回答を得た。 「古代」と現在との関係をどのように捉えるか。これは歴史を書く上で、自国のルーツと権威に関わる重要なポイントである。徂徠の主張が当時の政界や学界にどのような影響を与えたのか、また、彼が音楽の理論と理念を通じて叙述しようとした民族の精神史は、その後どのように受け継がれたのか、すなわち、日本における音楽史ないし文化史記述の変遷の中に徂徠が位置づけられるなら、陳氏の研究はさらに大きな意義をもつと期待する。
研究発表② オーネット・コールマンの音楽 -そのヘテロ性と自由- 発表:大阪大学大学院博士課程 佐々木 優 報告:能登原由美
ジャズ・サックス奏者、オーネット・コールマンは、1960年代のアメリカで一大ブームとなった「フリージャズ」ムーブメントの創始者として名高い。佐々木氏によって行われた本発表は、フリージャズという枠組みに限定されたこのようなコールマンの位置づけに疑義を唱え、楽曲分析を通じて彼の音楽の独自性を明らかにしようとしたものである。なかでも論点は、コールマンの音楽がもつ「ヘテロ性と自由」であった。 具体的な考察に先立ち、本発表の方法や対象の妥当性を裏付けるものとしてコールマンの音楽活動全般にみられる特徴が2点指摘された。すなわち、「2」という数字への偏執、独奏がないこと、である。さらに、このように独奏を行わなかったコールマンが好んだ編成には必ずベースが含まれていたことから、考察方法としてコールマンとベーシストの関係を明らかにすること、なかでも、演奏スタイルに重要な変化がみられる《Congeniality》を取り上げ、前作《Tears Inside》と比較考察することが述べられた。 まず、《Tears Inside》については、従来の機能和声的なビバップのスタイルを用いる代わりにコールマンは「トーナルセンター」という手法に基づき即興を行っていることが説明された。コールマンの奏法では全面的転調を伴うが、このことは一時的な転調しか行わないビバップ形式を遵守するベーシストとの間に齟齬をもたらす。その齟齬、ズレを表現した “discrepancy” という言葉の接頭辞 “dis-” をとって、こうした異質性が、「分裂している」という意味でのヘテロ性と捉えられることが示された。 次に、《Congeniality》については、もはや調性上では予め定められた形式のないことが示された上で、形式に基づくのではなく「音を聞く」ことによって奏者相互の一致( “congeniality” )を可能にしていること、しかし同時にここにも新たなズレが生じていることが明らかにされた。その新たなズレとは、トーナルセンターという中心が他者の解釈の介入により複数化することによって生じるズレであり、奏者間の関係性が必要条件となる。その意味で、 “con” 「共に」という構造の中で生まれるズレ、ヘテロ性であるとされた。ここから、コールマンの音楽における「自由」も、独奏ではなく他者がいるからこそ可能となる自由であり、それは最初に述べたコールマンの音楽活動全般にみられる特徴にも繋がりがあることが最後に示され発表は終了した。 佐々木氏の発表は、論旨が明快であったばかりでなく、楽曲分析という聞き手にも専門的知識を求めるアプローチを取りながらも、説明や言い換えを適宜交えるなど聴衆を配慮したわかり易いものであった。それは、この研究がジャズ音楽史の読み直しに繋がるものか、聴衆との関係はどのような影響を与えるのか、など会場から多くの質問が挙がったことにもみてとれる。それだけに残念だったのは、機器の準備の不手際により開始時刻の遅れや中断が生じてしまったことである。発表内容自体に水をさすことのないよう、運営側、発表側双方とも事前の準備・確認を怠らないようにしなければなるまい。
報 告 岡本太郎《明日の神話》広島誘致顛末記 発表:美術評論家 竹澤雄三 報告:詩人 井野口慧子
広島市に誘致をと、市民運動を展開した《明日の神話》は、結局今年の三月、東京の渋谷区に恒久展示が決定と発表された。だが岡本太郎と敏子の広島との関わりは深く、そのエッセンスだけでも報告させていただく。 太郎は10年間のパリ生活を終え帰国。1944年、太郎が33歳の時、広島の宇品港から出兵、中国大陸に向かった。戦後には平和式典への提言や原爆死没者慰霊碑、碑文論争、第五回原水爆禁止世界大会記念美術展参加。また〈夜の会〉のメンバーであった本郷町出身の文芸評論家、佐々木基一を通じて、原民喜、大田洋子とのつながりも早くからあった。 大田洋子の『半人間』(1954年講談社)の表紙は太郎が表紙・装丁をしている。 1954年3月、第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって被爆した後、《燃える人》を描き、《青空》《瞬間》(この作品は所在が不明。森永製菓のチョコレート缶のデザインに使かわれた)《死の灰》などに《明日の神話》の原型がある。 実は1967年秋、学生時代に《太陽の塔》の模型制作アルバイトで南青山のアトリエへ1、2ヵ月通ったことがある。岡本太郎は、私たちが石膏像をきれいに整えたと思ったら、それを鉈であっという間に切り込んだり、塔の最上部の金色の顔には、台所から鍋蓋を持って来て取り付けたりした。太郎と間近に接することのできた貴重な体験だった。 そして私が広島市現代美術館に勤め、再び岡本太郎との巡り会うこととなった。 2003年7月、熊本市現代美術館で「岡本太郎展」が開催された時、講演で来ていた敏子さんから初めてメキシコで確認された《明日の神話》の話を聞いた。広島の市民がそれなりの対応をしてくれたら、世界発信の場所として、ぜひ広島に置きたい、「有料はイヤ。無料で見てほしい」とも言われた。 1996年1月、ちょうど被爆50周年記念事業「岡本太郎展」開催中に岡本太郎が亡くなったこともあり、敏子さんの想いは広島に傾いていたと思う。 2006年10月27日、広島誘致会イベントでは、市民球場で実物大の《明日の神話》を参加者一人ひとりがワンピースを配置して実物大(5.5x3m)のモザイクパズルを制作した。 そして広島での実際の設置案を現代美術館の回廊や、地中(まだ現物を見ていない時期)そしてハノーファー庭園にと、丹下健三の構想に基づいて最終案を村上徹さんに作ってもらい、東京に提出した。 前後するが、2005年4月、ギャラリーGでの「明日の神話展」は、前年パルコでの講演会の時に敏子さんと約束されたものだった。オープンの19日、空港に迎えに行っても敏子さんは飛行機から降りて来られなかった。翌朝、オープン当日にご自分の部屋で亡くなっておられたことがわかった。枕元には旅行の準備、飛行機のチケットが置かれていた。 敏子さんの想いはきっと次代に引き継がれることであろう。 今振り返ってみると、修復のことなどに気持ちがのめり込んでいて、著作権、展示権、アスベストの問題などの詰めが出来ていなかった。渋谷でいい展示ができればと、今は願っている。敏子さんは“太郎さんのおぼし召しで必ずふさわしい所に行く、作品が自らの場所を選ぶ”と言われていた。 かつて故今堀誠二先生が、広島には日本一のものが必要だと言われたことがある。今それが《明日の神話》だったのだと思う。カラッとしていてじめじめしていない、ストーリ性も人間の再生表現になっている。もともと知名度が高く、「芸術は爆発だ!」とのパフォーマンスでさらに有名になった岡本太郎の非常に優れた作品だからこそ、皆が一生懸命になった。 チェ・ゲバラが広島を訪れた時「こんなにひどい目にあって、なぜ立ち上がらないのだ!」と言った。革命的行動をとらない日本人は「人を恨まない」と言う。日本人の美意識かもしれない。この誘致で広島を見直す力を見いだした。広島は東京、大阪と競争をしたわけではなく、その立場を貫いたのだ。「タローポート」と名付けて広島を拠点に作品を貸し出そうという構想も、ヒロシマがもつ基本的な考えに基づく。今後私たちは、さらにここから広島の「まちづくり」イクオール「ひとづくり」展開をしなければと思っている。
以上
今回、竹澤雄三さんならではのお話を聞かせていただき、それぞれがそれぞれの想いや形で岡本太郎とつながり、<広島>が芸術を通じて一つになった体験を、これからもっと豊かに連動させていけたらと願う。私事だが、竹澤さんと同じ故郷、三次で過ごした時期、母のような存在だった叔母が今年6月に他界。晩年しばらくお世話になった牛田・神田山の長生園の玄関に、竹澤さんの父上、丹一先生の書が掛けられていた。「今日も仲良く」という何とも平凡な言葉が、緑色の強烈な文字で描かれていて、訪れる人の胸をぐいと捉えてしまう。 竹澤丹一という芸術家のいくつかの展覧会でも感じたことだが、生き方そのものも太郎に通じていた。その息子の雄三氏が太郎と出会ったのも納得してしまう。今後のご活躍を心から祈りたい。 なお、竹澤氏の報告をまとめさせていただいたのを機に、広島発の季刊誌「旬遊」のvol.22号(㈲メディクス発行 9月25日発売 750円)<詩が生まれる場所>に、私自身の岡本太郎との出会いを書いてみた。ご一読いただければ幸いです。
シンポジウム アートにおける「記録と記憶」 -芸術が残すことと、芸術を残すことをめぐって- 報告:呉工業高等専門学校建築学科 冨田英夫
① 基調講演 「ル・コルビュジエの記録と記憶について」 千代章一郎(広島大学大学院教授)
②パネルディスカッション 「アートにおける/をめぐる「記録と記憶」 司会:松田 弘(広島県立美術館学芸課長) パネリスト:千代章一郎、柿木伸之(広島市立大学国際学部准教授) 的場智美(アーティスト) 吉井 章(広島市立大学教授)
近代建築や広島について、記録と記憶が議論されるのは、直接的な体験者や体験物が失われつつあり、これまでとは異なった記録・記憶との関係が求められているからだろう。 本シンポジウムのテーマは松岡剛氏によるもので、ル・コルビュジエ作品の世界遺産への登録申請から始まる説明文には大きく分けて2種類の芸術作品と記録・記憶の関係が示された。すなわち、①芸術作品が記録され、その価値が継承されること、②芸術作品がその時代の社会と文化を記録すること、の2種類である。結果として今日の発表では②の方の内容が多かったが、①のテーマも語るべき重要なテーマであったと考える。 千代章一郎氏はフランス近代の建築家ル・コルビュジエの建築制作における記憶について発表した。まずコルビュジエにおいて記憶することとは、①記録すること、②参照すること、③想起すること、という整理がなされた。①記録することとは、例えばコルビュジエが若い時に勉強した建築の古典を、旅行で実際に体験し、動く製図台であるスケッチブックに手で記録することである。なお、彼の記録は他者の作品だけでなく自己の作品にもおよぶ。②そして、それらを建築の制作において参照する。例えば、ラトゥーレットの修道院の場合、アトス山で見た張り出すバルコニーなど多くの要素が参照される。 ③同時に、制作においては旅の記憶が自発的に想起される。例えばロンシャンの教会堂では、現象学的な意味でヴィラ・アドリアナの光が想起される。千代氏の発表はコルビュジエの建築的制作における「光の現象学」に注目し、そこに歴史的人間環境の再構築という意義を見出す点が特徴であった。 柿木伸之氏の発表は、「未問の記憶へ -記憶の痕跡としての美術作品の経験、その広島における可能性によせて-」と題する論文を資料として配り、それを読む形式で行われた。まずアドルノの「あらゆる芸術作品は文字である」というテーゼに注目し、「文字」としての芸術作品は沈黙において語りかけ、謎をかけ、常に新たな解読を迫ることを示した。つまり、芸術作品は無意識的なドキュメントとして、かつそれを今ここで不断に更新する想起の媒体として、記憶の現場でありうるのではないかという考えである。広島という都市において「記憶を想起しつづける」という芸術作品の持つ可能性への指摘は非常に示唆に富むものであった。 的場智美氏の発表は、アーティストの立場から自作の解説を中心におこなわれた。氏の作品は、地図という客観的な表現形式をとりながらも、現実とは異なる形で世界中の有名な30の都市が配置される。それらの都市は実に巧みに配置され、緻密に加工された一枚の地図上に存在している。その精度は地図に記された都市名を読み込むまでは、加工された地図であることに気づかないほどである。そして、鑑賞者は現実には隣合わない二つの都市の間を行き来することで、作者の言う「文化の隙間」に入りこみ、そこでの体験を想像するのである。 吉井章氏の発表は、「表象都市メタモルフォーシス広島」(2003)での作品を掘り下げて説明する形で進められた。「なぎの情景」と題する作品は高さ2m幅8.1mで、かつ絵の下方が少し折りまげられるという観賞者の視野を覆うような規模・形式の作品である。作者自身が記憶画のようなものと表現するように、作者が昔、遊んでいた頃の記憶をもとに広島の街が描かれた。今日の発表の中では最も「記憶媒体としての作品」という趣旨に近い発表であった。 また、会場から記憶と創造性との関係について質問があったことで、制作とその成果の作品における記憶の創造的な可能性がより明らかになったのではないだろうか。
投稿・エッセイ
「五輪」の花が咲く北京 広島大学 袁 葉
絢爛豪華かつ優雅な歴史絵巻が繰り広げられるにつれて、私は知らず知らず夢幻の世界へと引き込まれていった―北京五輪の開会式だ。 中国の四大発明のうち「紙」「印刷」「羅針盤」をテーマにしたスペクタクル。「火薬」は取り上げなかったようだ。「和為貴」(和を以って貴しと為す)という古代中国思想と、平和の祭典との繋がりを感じさせられた。この印象を北京の母に話したところ、「火薬もあったわよ。あの花火こそ、平和利用の象徴じゃないの」と切り返されてしまった。 だが、理想と現実のギャップはあまりにも大きい。開催中に起きたロシアとグルジアの紛争、新疆自治区でのテロ事件、北京での米国人殺害事件…。大会が無事終了できることを祈るばかりだった。 閉会式、いよいよ聖火台の火が消えてゆく。名残惜しいというよりも、やれやれ! という安堵感が先に立った。 悠久の歴史を誇り、世界最多の人口を持つ中国。五輪の開催がようやく今日になったわけは、中国人の気質および歴史的背景にあるようだ。 日本語には「いい汗」という表現があるが、中国語にはない。反対に「臭汗」という言葉はある。些細なことのように見えるが、中国人の伝統的なものの考え方を垣間見ることができる。 古くから中国では、「労心者制人、労力者制於人(頭脳を働かす者は人を支配し、肉体を働かす者は人に支配される)」という儒教思想があった。そして、日本と同じく「士農工商」という階級制度があったが、日本の「士」が「武士」の意味であるのに対して、中国では「士大夫」即ち科挙試験に合格した官僚や文人を指した。日本の武士が身体を剣道などで鍛えたのと異なり、士大夫の嗜みといえば、「琴、棋(囲碁、将棋)、書、画」であった。その名残か、中国では健康を維持するには伝統的に太極拳のようなゆっくりした動きが良いとされてきた。 中国の有名な作家・思想家―林 語堂は、『中国=文化と思想』(1937年)(講談社学術文庫1999年)の中で「中国人の精神は多くの点で女性的だ」と指摘していた。 五輪の開催は、「中国人百年の夢であった」と報じられているが、その根拠は、百年前に『天津青年』という雑誌に、五輪を紹介する論文が発表されたことによる。「いつ中国は五輪に選手を送れるのか、いつになれば中国は五輪を開催できるのか」とある。 しかし、アヘン戦争(1840年)以降、中国人は西洋人から「東亜病夫」(東亜の病弱な人)と評され、国民は列強各国の蹂躙と清朝の圧政に喘いでいた。千年以上も続く女性の纏足の慣わしはまだ存在していたし、識字率も低く、おそらく五輪の存在すら、ほとんど知られてはいなかっただろう。 1949年に中華人民共和国が建国してから、スポーツへの関心が次第に高まってきてはいたものの、俗に言う「四肢発達,頭脳簡単」(うどの大木)にも表われているように、旧来の考え方が依然として根強かった。 さらに、中国は台湾問題で1958年「国際オリンピック委員会」を脱退し、五輪は長い間、中国国民とは無縁のものとなっていた。ようやく夏季五輪への切符を手に入れたのはロサンゼルス大会、1984年のことになる。改革開放政策から5年目、ちょうどテレビが普及し始めていたのも手伝って、女子バレーが初優勝すると北京中が歓喜に沸いた。 当時、私は北京放送大学(現中国マスコミ大学)で日本語講師をしていた。興奮した私が「いつか、中国でも五輪を開催できたら…」と、それまで考えてもみなかったことを口にすると、同僚たちは目を丸くしたものだ。 24年後の今、ついに北京でそれが現実のものとなった。マラソン中継でテレビに映る故郷の街並みを見ながら、懐かしさに浸っていた。とその時、両親の母校、清華大学が画面に現れた。各国の選手がそのキャンパスを走り抜ける光景に、感無量だった。もしも60年前、そこの図書館で二人が出会っていなければ…。 それにしても、今回の大会が成功できたのは、陰で支えている日本人の力も大きい。メインスタジアム「鳥の巣」の構造設計や開会式の衣装デザイン、閉会式のテーマ音楽などは、日本人によるものである。 競技のみならず、いろいろな感銘を与えてくれた北京五輪。しかし、私の瞼に一番鮮やかに残っているのは、開会式で唯一、日中両国の旗を持って行進してくれた日本選手団の笑顔であった。
インフォメーション
<書展の案内> 「アートな瞬間 ~明日を信じて~ 前衛集団「太陽社」の仲間たち」
前衛書道を学んだ16名が、各々の今の生き様を示す「アートな瞬間」を旧日銀の空間に展開。一階大ホールでは、「命」をテーマに、来場者の参加によるオブジェ創りを行う。出品作家16名のうち、足利敏子、椎木 剛、三好尚美、山本てるみの4名は当学会の会員の方々。
日 時:10月1日(水)~19日(日) 10時~19時 会 場:旧日本銀行広島支店(広島市中区袋町5-21) 入場無料
広島芸術学会事務局から
○予定ではありますが、今年度の例会日程が決定しました。 第85回/12月20日(土) 第86回/2009年3月14日(土) 第87回/5月16日(土)
○第83回の野外例会「鞆の浦散策」報告は紙面の都合上、次号に掲載します。
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